みかんちゃん

 空から音楽が降ってくるようになったのは、意外にもその歴史は浅く、五年くらい前のことだった。それが人々に受け入れられ、その心に深く浸透したため、僕たちはそれをずっと昔からある“自然なこと”だと思っていた。江戸時代の人たちが、鎖国をそのように考えていたように。

 朝、駅を降りて、会社までの道のりを歩いているときに、僕の頭のなかには、よく奥田民生の『愛のために』が降ってきていた。そういえば昔、イヤフォンで音楽を聞きながら、出勤時にこうして道を歩くとき、よくこの歌を聞いていた。聞きながら「まるで空から音楽が降ってきているみたいだな」とよく思った。そしてある日突然、世の中はほんとうにそうなった。

 降ってくる音楽は、人それぞれに違う。その人が知る、そのときの気持ちにもっとも即した音楽が降ってくる。降ってくる音楽は、誰かとシェアすることもできる。海岸で海を眺める恋人同士でも、最初はそれぞれの音楽が降ってきている。でも、どちらかの音楽を二人で一緒に聴きたいなら、そう願えばいい。これは別に恋人たちだけに限った話ではない。自分に降ってくる音楽を、近くを歩く全ての人に聴かせたいなら、そう念じればいい。周りの人が、その聴かせたいという気持ちを受け入れれば、同じ音楽を聴くことになる。夕日に染まる駅までの歩道、そこを歩く全員に同じ音楽が降るときもあり、そういうとき、人々は奇妙な一体感と、なぜか郷愁も感じるのだった。

 ある日の夕方、会社帰りの僕には、ビートルズの『In My Life』が降ってきていた。その日は仕事が終わると、最寄り駅まで続く歩道を外れ、寄り道をしていた。駅へ続く歩道には、多くの会社帰りの人が歩いている。その歩道を外れ、ホームセンターへ向かう道に歩を進めると、前を歩く人はひとりもいなかった。

 音楽を感じながらしばらくのんびり歩いていると、後ろから同じ曲が近づいてきた。振り返ると、シンプルな顔をしたかわいい女の子が後ろを歩いてきていた。その女の子の頭にも、ビートルズの『In My Life』が降ってきていた。僕らのうちどちらかが、どちらかの曲を共有したわけではない、最初からたまたま、ふたりの頭には同じ曲が降ってきていた。

 どちらかの音楽を共有したときとは違い、僕たちそれぞれに降ってくる『In My Life』はかすかにずれたりして、絶妙な響き方をしていた。彼女は後ろから追いついて僕に並びかけると、横から僕のほうを見た。彼女はなんというか、とても熱心に歩く女の子だった。少し離れて素知らぬふりをしたかと思うと、肩がくっつきそうになるくらい近づいて、じっと僕の目を見つめたりした。僕も何度か横を向いて、彼女の茶色い目を見た。僕らは右手から夕日を浴び、並んで歩いた。僕たち以外に誰もいない歩道を、予感を感じながら黙って歩いた。大きくずれたり、ほとんど重なったりしていた『In My Life』が、ある瞬間、完璧に重なろうとした。その瞬間、彼女の口が開きかけた。僕は見てはいけないものを見る気がして、まっすぐ前を向いた。開きかけた口から言葉が発せられることはなく、彼女はいつの間にか脇道に曲がって行った。合わさろうとしていた『In My Life』は再びずれたり、ほとんど重なったりしながら、次第に僕の音だけが聞こえるようになった。

 世界に音が降らなくなって、もう一年経つ。降り始めたとき、人々はすぐにそれを受け入れたが、降らなくなったことをなかなか受け入れられないでいる。ほとんどの人は携帯型の音楽プレイヤーを肌身離さず、耳にイヤフォンを突っ込んで過ごしている。でも、耳をイヤフォンで遮断して音楽を聴くのと、空から音楽が降っていることでは意味が違う。僕たちはこの数年で、そのことを身をもって知ってしまった。人々のこころは、ここのところ次第に荒んでいっているように思える。

 僕はこのようになってしまった世界で、音楽プレイヤーを使わずに日々過ごしている。空から降る音楽が恋しくなったときには、静かにそれが空から降ってくるところを想像して歩く。あの夕暮れの日、女の子とふたりで聴いたビートルズの『in My life 』を思い出す。もう会うことはないのかな。真っ白な肌にリンゴ色の頬をした、みかんのような女の子だった。

#小説

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