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人々が生きてゆく為の夢のつづきの物語

ある日、毎週好き勝手に寄稿していたキャプロア出版という電子週刊誌の編集長からオファーをいただいた。
キャプロア出版は有志が集まって毎週Facebookメッセンジャーだけで企画から出版までやっている。毎週編集長が変わるのだけれども、その回では『日本国憲法』をテーマに出すという。
普段からファシズム支持を表明しているからこその考えを聞きたくて、オファーしてくださったそうだ。

快く受けることにしたが、とても責任が重たく、だんだんと気分が乗らなくなっていったのを覚えている。
なにを書こうか思い浮かばなかった『人権はタダじゃねぇんだよ!ばかやろう』とか邦画のタイトルみたいな話でも書こうかと考えた。人権がマネーによって失われてしまう恐ろしい話を書こうと思ったのだ。
もしくは『憲法に依存する愚か者ども』というタイトルで書こうとも思った。権利ばかり主張して義務を果たさない連中が多いからだ。しかし、基本的人権の尊重は、そうした愚か者どもにも手を差し伸べる先代の人々の優しさだと信じたかったので希望をテーマに書くことにした。
と同時に、抗えないマネーの支配ともきちんと向き合わなければいけないと思っていたので、当時はやっていたSNS(VALU)への希望も擬えて書こうとしました。VALUは個人の価値を株のようなもので取引可能にするSNSだ。ともすれば基本的人権すらも失いかねないサービスだ。だからこそそこに希望を重ねた。
また私自身は尊皇主義者でもある。だからこそVALUのようなサービスの未来をSF的にも想像したかったので書いてみた。VALUを国有化して『天皇は株主、総理大臣は代表取締役社長、国民は株式』みたいなことになれば良いという話だ。

何度か書き直して3回ほど全部消して何とか完成した。
完成したというよりかは勢いがすごかったから採用することにしたのだ。
カッコ良さと優しさを込めた雰囲気に仕上がったと思う。
雰囲気だけですよ。文章なんて読まなくて良い。読んで理解しようとなんてしちゃダメだ!
むしろ勝手に行間だけ埋めて想像を膨らませて欲しい。
そんな感じです。

あとがきは、∀(ターンエー)ガンダムに登場する月の女王ディア・ナソレルの演説です。


本投稿は、『週間キャプロア出版』で掲載されたものを大幅に加筆修正したものです。
『週間キャプロア出版 企画』とは、全てFacebookメッセンジャーのやりとりだけで企画からKindleでの出版までをメッセージグループに居合わせたメンバーだけで行うという新しい試みの出版グループです。とても面白い試みですので、ご興味がある方は是非参加してみてください。

週刊キャプロア出版(第9号): 日本国憲法 週刊キャプロア出版編集部 https://www.amazon.co.jp/dp/B07FDD3HQM/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_BwtsFbSPSB680


第3章第11条「基本的人権」

“第十一条国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。”


───直感・イメージ

“第十一条国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。”

この物語を自分の物語にする為に、この物語を他人の物語を支配する為に使ってはならない。

しかし、相手の物語を尊重するための物語という事を主張するのもまた、自分の感じた物語を押し付けているにすぎない。でも、そうであってほしい。という願いは持ち続けたいものです。

自分自身の存在を周りのみんなが、保障してくれる事を証明しているんだと思える物語。

みんな自分の物語を信じて生きてもいいですよー!ってみんなが言ってくれているのに、その物語の土台を国家は用意しているのに、みんなその物語に乗れないの。

きっと信じたくないんだろうね。だから基本的人権を踏みにじるなー!とか言っちゃう。何かを盾にして攻撃の手段に使うってことは、守ることができると信じていないからなんだと思うんですよ。自分を守ってくれるはずの物語の世界を生きていないからこそ攻撃の手段に使う。だから基本的人権が守れていないと主張しなきゃ生きていけないのだろうね。不幸な人が幸せになりたいと言い続けているのと似ている。

とはいえずるいことをする人もいるわけですから、笑顔を振りまきながら、平民を奴隷に変えていった人もいるわけですから、信じれない気持ちもわかります。大事なのは、自ずと良い方向に信じれることなのだと思うのです。無理やり思い込むのは違う。基本的人権があると思えてしまうか。ないと思ってしまうかの空気感は作って行かなければいけないと思う。それは国民全てが絶対的な幸せに進むという方向においてである。そうでなければ、ただただみんなが不幸になるだけだからね。

みんな一緒に幸せしていきたいでしょ?
同じ日本語を話し、日本人として生き抜いた人たちを死を大切に思い、共通の信じ合えるファクターを持つ、一緒に生きている人の幸せを願う。血筋や人種は関係ない。共通の思いで繋がった人々と共に歩む。

オイラは信じているよ。
どんなことがあったって、みんなが信じてくれているから、基本的人権の必要性なんて感じもしなかった。

だって当たり前だと思っているのだもの。信じ合いましょう!と明文化してくれているのが日本国憲法なのだと自ずと思って生きて来たのだから。


───直感・イメージを振り返る。

『全ての国民は金融商品である』これはファシズムに傾倒したTarCoon☆CarToonのスローガンである。アメリカナイズされた新自由主義的なTarCoon☆CarToonの『だってキミオイラのこと好きでしょ?』の対になる形で発表されたが、TarCoon☆CarToonをご存知であろう諸兄の皆様はどちらも自分本位な主張と思われるかもしれない。しかし、本当にこれが他者への配慮のかけらもない我儘勝手な思想が込められたスローガンなのか?それは受け手側の判断になってしまうのではないでしょうか?誰もが持っている『自分の物語』と、他者と自分との間にある『他人の物語』も、結局は誰もがみんな無意識にそう思い込んでしまっている『物語の世界』に生きているがゆえに、自分の内面が発露してゆきます。

『他人の物語』の世界を上手く活用しきたのが宗教でしょう。正しさとは何かという教えを説き、人々に一体感を与えることで社会を築いていきました。また既存の集団から排除されてしまった人々を一つの枠組みの中に引き戻すことも宗教の役割でした。それは現代も続きます。欧州を席捲しているイスラムもそうですし、日本ではあまり意識されてはいませんが、仏教系のオウム真理教もそのように思われます。社会から爪弾きにされた人々の心の拠り所となっていることは確かです。

本書を読まれている方の殆どは日本人でありましょう。日本国という巨大な政治共同体の枠組みの中で生活しています。意識していようがいまいが生まれながらにして同じ政治思想(他国に対して)を共有しその中で生まれてきました。宗教が与える『他人の物語』に心惹かれ、自らの意思で入信する宗教とは、物語が人に与える価値の重さが違ってきます。しかし日本国という国家にも物語はあります。それが『日本国憲法』ではないだろうか?

憲法の役割は、二つあると考えています。一つは権力を縛り従わせる。そしてもう一つが夢の続きだと考えます。それはこの憲法が同じ政治共同体の枠組みの中で生活するもの同士の共通の物語になる下地となり、無意識に生じる『自分の物語』を作っていくのでしょう。それぞれが天皇陛下の権威にすがり、憲法9条の権威にすがり、各々が思い描く未来を夢見て議論を交わす。しかし、裏を返せば、自分が縋る権威を利用して誰かを支配する権力に利用しようとしているようには見えてならない。

そして、第11条の基本的人権にも同じことが言える。基本的人権を盾に、国民の感情に反して死刑反対を訴える人々である。しかし国民一人一人に目を向けると、権力闘争の道具にされると言うよりも、むしろ蔑ろにされているところがあるように見受けられる。国民一人一人の、基本的な人権を無視されるような労働を強いられ、そして自ら進んで奉仕する姿を見れば、寧ろ蔑ろにしているというよりかは無関心と見受けられても仕方がない。

我が国は民主主義国家だ。民主主義ということは国民一人一人に権力が与えられているはずだ。にも関わらず、権力を持っている自覚がなく自ら奴隷の様に生きる。こんな愚かなことはない。一体我々は誰の物語を生きているのか?もっと自分の物語を生きていいのではないか?そう思ってならないのです。そして、第11条の基本的人権こそが、国民一人一人に与えられた、あなたの物語をあなたらしく生きなさいと示した物語であるはずなのに、それに誰も気付かない。社会から爪弾きにされた人々に救いを与えるのもこの物語であるにもかかわらずだ。

さて、冒頭に出た『全ての国民は金融商品である』という話をしよう。これは第11条の基本的人権が当たり前のように、誰もが自覚しているという前提で掲げられたスローガンである。そして、当たり前のように他人に対しても基本的人権が保障(それが無意識であったとしても)されている物語の世界という前提である。

VALUというSNSがある。VALUは個人が株式会社のようにVAとよばれる擬似株式を発行することができ、売りに出されたVAは自由に売買することができるサービスだ。取引は全てビットコインを用いて行われるので、個人の評価(価値)を取引して資本を手にすることができるのだ。そして、VALUのサービスを通して一つの理想の物語を思い描いた。それこそが『全ての国民は金融商品である』というスローガンに秘められた物語である。

『全ての国民は金融商品である』これは、国民国家という政治共同体としてまとまるのではなく、資本のつながりだけで纏まった新しい国家体制である。国民国家に対して金融国家、もしくは資本国家といえよう。国号も日本国から、大日本金融持株会社にすべきかもしれない。国民一人一人がVALUの様に個人の価値を国民同士で取引することができるが、国外取引をすることはできない。また、それらの100%株主は天皇陛下で有らせられる。国民は貴重な財産であるし、財産を増やす為に国民を増やす道も模索されることでしょう。この場合血筋は関係ない。あらゆる資本的結びつきのみで国家を強化するのである。かつて壮大な社会実験を行ったソビエトの様な失敗は起きないでしょう。本土と天皇と日本語がある限り大丈夫。これぞまさに日本型ファシズムの大本命ではなかろうか?

なぜそんな話をしたか?憲法の話に戻ろう。全て資本の結びつきだけなので憲法の様な物語は必要ないのだ。むしろ明文化された物語が邪魔をする。物語に縛られてしまう。そこから解放されるための、大日本金融持株会社なのである。憲法ではなく市場という物語に身を任せるのである。とはいえ、資本家に搾取された歴史を振り返れば、これは国民総奴隷化計画と捉えられるかもしれない。しかし、これまでの歴史と違う点を上げれば、巨大な資本家による支配がないということだ。天皇の元に等しく平等である様に、国民は金融商品でありながら資本家なのである。資本家の分散化社会こそ、まさに社会主義的とは言えないだろうか?

マルクスは「資本主義社会はやがて最終的に社会主義社会へ移行する」と主張しています。その言葉を使って巨大な中央集権的な権力と軍隊を使って強制的に推し進めソビエトという失敗を生み出しましたが、実際には現代の様な情報インフラの整備と、超高速化された情報通信網によってなし得る、資本家分散化社会を見ていた様に思えてならないのです。資本家が不当に搾取し、巨大化できないように個人にまで分散化させる。辿る道は、誰もが豊かに慣れない世の中なのか?それとも誰もが豊かになるのか?それは誰にもわかりません。

フリーランス、個人事業主が増えるという事はまさに資本家の分散化社会であり、富も分散化されます。富を持つという事は、その富も使って人を動かす事ができる訳ですから、ちいさいながらも権力を手にしていると言えるでしょう。その権力をどの様に使うか?という事が、個人一人一人に求められるわけです。民主主義も同じです。個人に権力があるのです。その点において国民(資本家)が自覚しなければならない。自分だけが幸せであればよいのか?自分だけが得をする仕組みであればよいのか?と言うことに自覚的であるか?が問われているように思います。権力を有するものが、権力者として相応しい振舞いができているかが問われていると思います。その振舞い方のヒントが第11条の基本的人権だと思いたい。

憲法に明記されているから基本的人権を尊重し厳守するのではなく。自ずと人を人として尊重し、お互いに認め合える様に、振る舞える様になること。その様に振舞えてこその国家の安泰ではないでしょうか?国歌『君が代』の中に”千代に八千代に”という言葉が込められている様に末長く私たちの歴史を紡がなければなりません。それが不安の解消や意識せずとも安心できる心の拠り所になります。自分だけが良ければいいという自分勝手な思いではなく、自ずと身近な人、家族や友人や仲間を自分のことの様に思えれば、自分がいなくなった後の世の不安に振り回されずに済むのではないでしょうか?

血筋や人種に縛られず日本人と思っている者が、日本を我が国として思う。そういう人々によって末長く紡いでいく。いつしか人間はヒトの形を捨てているかもしれません。もしくは人の生み出した人工知能が日本人としての営みを守り続けていてもいいではないか。人類が滅んだ後も、私たちが生きた証を、その連なりをその後も続けていってくれれば良いなと思います。

夢見ること、理想を思い描くことは活力になります。しかしそれは実際には存在しません。今があるだけです。しかし夢や希望や理想を思い描けなければ活力は失われやがてゆっくりと死んでゆくだけでしょう。だからこそ今この瞬間目の前にいる人を大切にし、尊敬し合い高め合い、幸せを願う事が大切なのです。

第11条の基本的人権、それは、人々が幸せに生きてゆく為の夢のつづきの物語だ。強制ではなく、自分の中の無意識に作用させようと試みて掲げられた『だってキミオイラのこと好きでしょ?』と同じである。このTarCoon☆CarToonのスローガンの様に、”他人が自分に手を差し伸べるのは自然なことなので、助力を求めるのにも抵抗がない”という実感を誰もが持てる事が、この急激に加速化する資本と情動の流れを食い止められるかもしれない。自分が相手を思うという事を俯瞰する事で尊重できるのだと思います。

人々がお互いの尊厳を守り合える優しい国になって欲しい。そしていつしか憲法に依存しなくても、人々の暮らしを豊かにし、共感や情動だけの結び付きではなく、理性的に人の良い部分を見つけ、幸せ受け入れようとする風土になります様に。そして尊敬できる人達に溢れ、その場に居るだけで学びの機会を得られる社会になります様に。これは私の願いです。

掲載時のあとがき
遠未来のお話は誰も興味は持たないけれども、かといって遥か彼方の大昔のお話にも興味を示さない。みんな自分のことだとは思えないのかもね。私たちは宇宙に進出した過去の歴史を、天の神々の物語にすることによって、または黒歴史に封印することで再生の力を身に付けました。悲惨で過酷な記憶だけでは、人は再生も再起も不可能だからです。ですから、歴史的事実の解釈を変え、場合によっては歴史そのものを書き換えてしまうのです。

週刊キャプロア出版では、このようなテキストを沢山の人が参加して、沢山の人が企画し、編集をして出版される電子書籍です。
Kindle Unlimitedでも無料で読むことができますので、是非お手に取ってみて下さいね。

週刊キャプロア出版(第9号): 日本国憲法 週刊キャプロア出版編集部 https://www.amazon.co.jp/dp/B07FDD3HQM/ref=cm_sw_r_tw_dp_x_BwtsFbSPSB680

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