わたしの祖母の話
麻酔から目が覚めて最初の一言は「ひ孫・・・」だったらしい。これは私の大好きな祖母の話である。
数年前から目の調子が悪く、視力の低下を訴えていた。「もう、年とっちゃって嫌ねぇ」なんて笑っていたけれど結局老化ではなく(多少はあれど)、癌だった。目の癌なんて聞いたことがなかった。近所の眼科から大きな癌専門病院に転院し、たくさんの検査を受けた。そこの医師ですら今までほぼ担当したことがないケースだということもあり、片道1時間近くかけて毎週検査に通っていた。日に日に視力が下がり、ひとりでは歩けない状態になっていたので私の母や叔母が交代で付き添っていた。
20代のうちに3人の子供を産み、いまは70代の祖母。数年前までは、仕事も現役で理容師をしていた。朝7時に起きて8時から19時まで働いて、夜は行きつけのスナックで友人たちとおしゃべりを楽しむ。日付が変わるか変わらないかって頃にやっと帰ってくる。これスーパーで半額だったの、なんてお寿司やお好み焼きを片手に持って。20代の私なんかよりはるかに元気だった。「疲れたな〜明日顧客先直行するってことにして10時まで寝ようかな〜」なんて思いながら洗面所でだらだらと髪を乾かす私の隣でささっと服を脱ぎ、歌いながら浴室へ向かうような祖母。月1や週1の出来事ではない。ほぼ毎日だ。仕事は基本週1休みだが、仕事があろうとなかろうと夜は大体いない。ちなみに祖父は同じ時間帯働いて21時には既に夢の中。
よく笑って、よく喋る。とにかくずっと話している元気で明るい祖母。年齢を重ねれば重ねるほど元気になっているんじゃないか、と思うくらい。
そんな祖母が一気に小さくなってしまった。声も小さくか細くて、まるで別人。隣で話していても目が合わない。焦点が定まっていない。本当に見えなくなってしまったんだな、と私含め家族はみんな落ち込んだ。それ以上に落ち込んでいるのは間違い無く祖母だったけれど。
あんなにアクティブだったのに、寝たきりになってしまった。テレビも見えないからつまらない。スマホもせっかく買ったばかりなのに操作できない。話し相手になろうとしても、「私なんてもうだめだ、死にたい。はやく迎えにきてくれないかしら」とネガティブな言葉ばかり。
「あんた鬱になったって?情けない!!みんなねぇ、辛いことがあっても頑張ってんのよ、あんたもしっかりしなさい!」
数年前、鬱で寝込む私に勢いよく怒鳴った祖母はもういなかった。
2019年の夏に祖母は入院し、抗がん剤や放射線治療を重ねた。どんどん弱っていったけれど、私の結婚式を楽しみに治療を頑張ってくれた。入院前、一緒にドレスショップへ連れていったとき、「あんたもドレスもよく見えないや」とぽつりと悲しげに言う祖母の前で涙をこらえた日もあった。
目が見えなくても祖母が楽しめること、喜べることを何かしたいと悩んだ私は、披露宴で和太鼓を打つことにした。和太鼓は、見えなくても音を楽しむことができる。音が全身に響いて振動を感じることもできる。目や耳が悪くても、そこにいるだけで音楽を楽しめる素晴らしい楽器だ。盲学校や聾学校に演奏をしに行ったときのことを思い出したのだ。
8歳の頃からプロ・アマ混合の和太鼓チームに所属して19年間青春を捧げてきた私は、座長に頼み込んで当日和太鼓を貸してもらった。一緒に厳しい稽古を乗り越えてきた仲間でもある弟と共に、披露宴で中座すると見せかけて和太鼓を担いで会場に戻ってサプライズで演奏した。
祖母、号泣。(余談だけどこのサプライズ内容を事前に把握していたプランナーさんや司会者さんはじめ、スタッフさんまで泣いていたらしい。)
治療を頑張った祖母はなんと結婚式当日にはだいぶ視力が回復し、また目も合うようになっていたし、介助なしで歩くこともできた。医師も驚きの回復力。
スマホで当時のムービーや写真も見れるようになり、以前のように夜遊びはできなくとも、元気な祖母に戻った。
転移や再発もありえるため、経過観察で祖母の通院はその後も続いた。そんな矢先、新型コロナウイルスの発生。今まで経験したことのない事態となり、祖母の通院頻度も減った。
2021年2月。祖母は相変わらず元気だったが、検査結果があまりよくなかったので再び入院することになった。コロナ禍のため面会はできない。売店や談話スペースに行くことも制限され、24時間マスク着用、会話は最低限。おしゃべり好きの元気な祖母がまた弱ってしまう。家族みんなが不安になった。
抗がん剤治療の影響もあり、やはり祖母は再び小さくなった。姿は見えなくてもわかる。3月、久しぶりにできた電話越しに聞こえる声は掠れていた。スマホの音量を最大限にしても小さくて聞こえにくい。ぽつりぽつりとこぼれる言葉はネガティブなものばかりだった。
3月も半ばに入る頃、叔母あてに医師から突然電話がきた。院内クラスターが発生して、祖母がコロナ陽性になったと。よくよく聞いてみれば同じ部屋の入院患者が肺炎だったらしい。母や叔母は病院に対してかなり怒っていたが、個室に隔離になり電話ができるようになった祖母は小さい声で言った。「看護師さんたちがみんなよくしてくれている。だから大丈夫だ。熱も下がったし、ご飯も食べれているから心配しないで。」
東京を離れ静岡で暮らす私は毎日祖母にLINEを送った。視力もまた落ちているのか既読はなかなかつかず、返信も何日かに一通くるかどうか。何を送っても返ってくる言葉は
「ありがとう」「ばばもがんばってるからがんばって」
陽性判明から約1週間後。祖母はICU、いわゆる集中治療室に移動となった。血中酸素濃度が急激に下がり、熱も再び出たようだ。麻酔で眠らされて酸素チューブをつながれた。病院もバタバタとしていたのだろう。状況などの連絡はほとんどなく、私たち家族は今まで以上に不安でいっぱいの日々を過ごした。高齢者の重症化は多い。そのまま命を落とすケースも。
さらに一週間以上経ち、4月。祖母はICUから一般病棟に移動して麻酔から目覚めた。またもや奇跡の回復を遂げた。よかった。本当によかった。
ようやくここで記事冒頭文に繋がる。
麻酔から目が覚めて最初の一言は「ひ孫・・・」だったらしい。
祖母のコロナ陽性が判明した同時期に、私は妊娠検査薬で陽性が出た。昨年末に流産の記事を書いたが、私たち夫婦のもとにも奇跡が起きたのだ。この話はまた別でするとして。
やっと意識を取り戻して最初に思い出してくれたのがひ孫だった。看護師さんにも「孫がつわりでげーげーしてるの」と話していたらしい。実際私はげーげーしていたが。先月末から安定期にはいった今現在もげーげーしているが。
「前は亜美の結婚式、今回はひ孫パワーで乗り切ったね。亜美のおかげだね」と家族は言ってくれた。単にタイミングが偶然重なっただけだが、それでも嬉しかった。少しでも祖母の生きる力になれたのなら。
ゴールデンウィークには無事に退院して、祖母はいま実家で生活している。在宅酸素療法で鼻にチューブを装着しているが、また元気な祖母に戻っている。
テレビ電話をすると「は〜い♩元気でーーーっす!こんなのなくても大丈夫でーーっす!!!」と酸素チューブを鼻から抜き、踊りながらぶんぶん振り回してみせるくらいには元気だ。酸素濃縮装置から装着できていないことを知らせる警告音が鳴ると「あらやだ呼ばれちゃったわ」と笑ってチューブを鼻に戻す。私の大好きな祖母だ。
「夏に亜美がこっちに戻ってきたら、アカチャンホンポに行こう。お昼にあんたの好きな天丼を食べよう。それまで私もリハビリ頑張るから。亜美も頑張って。」
私頑張るよ。今度こそしっかり赤ちゃん守って元気な子を産むよ。
だからばばもずっとずっと元気でいてね。