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なぜネット上になると、日本人の人格は壊れるのか。

笑われるかも知れませんが、
実は私は「人の善性」を信じています。

もちろん希望的観測ではなくて、
自分の経験的にもそれを確信しているのですが、
善性というのは人間の奥底にあるもので、
かつ、それを衆目に晒すことはとても気恥ずかしいことなんですね。

そしてその周りに「現実主義」とか、「欲望」とか、
いろんな理由にこじつけた「性悪説」が殻のように取り巻いている。

でも多くの人はその悪性をおもいっきり晒すは社会的に
良くないと思っているので、
さらにその外側を善性ルックで包んでいるわけです。

そうなると、その善性ルックの内側には悪性があるのだ、と思い、
その悪性こそが人の本性であると思い込んでいるのですよね。

でも、その悪性もまだベールの一枚であって、
その奥に実は「本性の善性」が存在している。

人はそういう構造になっていると私は思っているので、
その多重構造の殻をどうにかして取り除くと、
その人の「本性としての善性」が出て来ると思っているし、
(もちろん精神の疾患で本当の善性そのものが
破壊されてしまっている人が稀に存在していると思いますが、
それも、破壊に至るなんらかの理由があったと思います。)
本性の善性を晒してしまった人は、実はものすごくラクになるんですね。

性悪は、維持しているのが疲れるんです。
無理していますから。

お金というものを生み出し、
そのやりとりの中でしか生きていけないかのような集団錯覚を生み出した人類は、
「人は自分を騙して富を奪うのではないか?」という妄想によって
恒常的なプレッシャーに晒されているからですね。

この精神構造は、狩猟採集生活をやめ、
定住し、農耕生活を始めたことがきっかけだったそうです。
うん。想像できますね。

さて、最近2冊の本を読みました。
(厳密に言えば片方は上下巻にわかれているので3冊なのですが)

2021年に出版されたルトガー・ブレグマンの著書、
「Humankind 希望の歴史」と
1999年に出版された山岸俊男の著書、
「安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方」です。

これを同時期に読んだのはとても示唆に富んだ体験でした。

大まかに内容を紹介すると、「Humankind 希望の歴史」の方は、
私が先ほど書いた「人間は元々は善性である」という説を
科学的なデータとともに論証していくものです。

もちろん最終的な結論が出る問題ではありませんが、
人間は社会やルールがなくなると獣になるという考えは正しくない、
ということを自信を持って言えるようになる良書です。

私は今後、「お前の意見はお花畑だ」と言われたら、
「君こそ、人間の本性は善性であるという現実を知らないんだね」と
堂々と言い返そうと思っています。

誰かはやく「お花畑」と言ってくれないかなぁ。

そして「安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方」の方は、
日本人は集団主義的で、アメリカ人は個人主義的だと言われて来たが、
それは「日本=恥の社会」「アメリカ=罪の社会」という
社会構造が生み出したものであって、
実際は逆だ、ということを論証しています。

日本人の方をもう少し詳しく説明しますね。

日本人が集団主義的(つまり個人の利益より集団の利益を重視する)のは、
他の人とちがうことをしていると笑われるとか、
非難されてコミュニティに居にくくなるから、それをしない、という
相互監視的な社会システムのせいなのである、と。

つまり、日本が集団として比較的統制がとれているのは、
日本人ひとりひとりの心に思いやりの精神があるからではない、ということです。
(必ずしも思いやりがない、とは言っていませんが)

なので、もしその相互監視システムが働かない状況になると、
つまり「匿名性」を帯びると、とたんに非協力的になり、
アメリカ人以上に利己的な行動をとるようになる、ということです。
(むしろアメリカ人は他者を信頼し、
 協力しようとする性質があると指摘しています。)

これ、1999年に書かれています。
インターネットはありましたが、SNSなどまだ存在しない時代です。

すごいですよね。
そういう性質を持った「日本人」という生き物が、
SNSを手に入れた時、いったいどうなるのか、という話です。

日本人の集団主義は「恥の社会」という仕組みによるものであって、
日本人、一人一人の心の問題ではない。

だからその仕組みが働かなくなると、まるで反動のように利己的になる。
そしてそれは「匿名」になったときに生ずる。

これ、古くは2チャンネル、最近ではヤフコメや、ツィッターなんかの
いわゆる「議論」なんかを見るとよくわかりますよね。

あのネット上での「口の利き方」は、一体なんなのでしょうか。
あんな口の効き方を現実世界でやっていたら、
社会はあっという間に崩壊してしまいますね。

小説家の平野啓一郎さんが提唱する「分人主義」というのがあって、
人間の人格は相手と自分の関係性で生まれる相対的なもので、
一人の「個人」が相手の数だけ、複数の「分人」を持っている、
というものです。

とても共感するのですが、私はそれを一歩進めて、
日本人はことさらに「分人」の数が多いのではないか、ということと、
それは日本語の文化が影響しているのでは?と考えています。

日本は話す言葉によって、相手との距離を規定します。
上司とか、後輩とか、恋人とか、家族とか、好きな友達、嫌いなやつ、
相手に対して使う言葉が変わることで、その人の人格も変わる。

関係性を示す言葉の種類が多い日本人には分人ができやすいですね。
だからこそ多様性社会への移行が難しいのでしょう。
そして、ネット上でのその人の分人はどんなものか?
という問題が出て来ます。

つまり、あなただとわからない状況になったときのあなたは、
いったいどんな口調でしゃべる人なのか?ということです。

そのとき、www←こういうのを使って、
まるで人をおちょくるような態度をとる人の、多いこと多いこと。

なぜここまで人を小馬鹿にした態度になるのか。
これは一体なんの表れなのでしょうか。
私は、noteでは「ですます調」を使っていて、
ツイッターでは「である調」と口調を変えていますが、
それは140文字という制限の中で言いたいことを伝える、という命題と、
(ですます調は文字数を食うのです)
ツイッターは「つぶやき」、つまり独り言であって、
それそのものが特定の誰かに投げかけたものではない、
という判断があるからです。

私にとってツイッターは心の内を文字化したものであって、
基本的にコミュニケーションの道具と位置付けていません。

ですがそれにリプがついたとき、ときどき返信をしますが
(基本はしないです)、
そのときはリプしてくださった「特定の人」を相手にしているので、
「ですます調」にします。

それに、告知とか、明らかに読む人の存在を意識しているときは
「ですます調」です。
当たり前ですよね。それが礼儀というものだと思います。

日本人は「礼に始まり、礼に終わる」とか「おもてなし」とか、
一見、非常に礼儀正しい文化があると思われていますよね。
私は今でもそうあるべきと思っています。

だから、ネット上でも、そうあろうと心がけています。
(完全にできてはいないかもしれませんが)
しかし、ネット上を見ていると、どうも日本人ひとりひとりの心の中に、
そんなものは存在していない、というのが現状なのでしょうね。

例えばいわゆるネトウヨと呼ばれる方々もそうですが、
プロフィールに日の丸なんかを掲げている人がいますが、
そういう人で、口調が丁寧で、態度が真摯で、礼儀正しい人というのを
あまり見たことがないのです。

そういう人が「日本人」ということを前面に出していることに、
私は違和感があるんですよね。
その違和感を感じている自分を見つめるとき、
自分はリベラルなのか、生粋の保守なのか、わからなくなるのですが、
おそらく人間を右左で分けられると思っていることが
未熟な考え方なのだろうと考えています。

まぁ、とにかく、何が言いたいかというと、
ネット上での日本人(あるいは日本語を操る人々)の口調にみる心なさに、
この国の未来は大丈夫だろうか、と思ってしまうのです。

どうして、それほどまでに軽々と人を冷笑するのか。
どうして、それほどまでに人間性を諦めているのか。

自分の顔がばれないのであれば、
あるいは顔のわからない相手なら、どんなに叩き潰しても平気。
むしろそのときそこに、
「相手にも人格がある」ということを完全に無視し、
まるで憂さ晴らしのように暴言をぶちまける姿に、
ひとりひとりの個々人ではなく、
日本社会の構造という大きな不具合を見るわけです。

しかし、それでも、私はそのベールの内側に
「善性」があると思っています。

そう信じたいわけではなく、それが現実だとわかっているということです。
あの2チャンネルでさえ、善性が発揮されたことがありますよね。

みんなが協力して課題を解決したことがあります。

前出の「Humankind 希望の歴史」にも、
非常事態が起きた時に、人は本来の善性に戻る、
ということが記されています。
東北の震災の時、わたしはたくさんの人の善性を見ましたし、
今でも彼らと接するとき、それを感じています。

そしてその人たちは、本来の姿で生きていることで、
とてもラクそうに見えるんですね。経済的な意味ではありません。

心の問題として、です。

社会のためになることをしようと立ち上がる人を見るとき、
「偽善者だ」という人は必ずいます。
日本人には特に多いような気がしますが、
そんなことを言う彼らは彼らで、何かを守っているのだと思います。

おそらく「自分」でしょう。一歩踏み出さない自分です。
一歩踏み出した人を見るとき、そうできていない自分が惨めで、
思わず彼らを批判したくなるけれど、その方法がないから、
性悪説に因果を求めて「偽善者」と言うのでしょう。

でも、そんな人でも、その根っこには、
自分もそうして、ラクになってしまいたい、という感情が眠っている。

そう思うんですね。

言い返せない立場の人をみつけると、みんなで滅多打ちにする。
完膚なきまでに叩きのめす。

この態度は、日本人の美しい美徳だと、私は思っていません。
正々堂々ともしていませんし、日本人が忌み嫌う「卑怯者」そのものです。
けれど、日本の歴史には「卑怯な態度」がたくさんありますね。

その「卑怯さ」を隠すために、自分の汚い部分から目を逸らすために、
過度な完璧さを他者に押し付ける。
もしかすると戦中までの天皇制は、そんな存在だったのかもしれません。

一部の人にとっては、今も。

完璧な人間なんていません。
完璧にクリーンでないなら、クリーンと言ってはいけないという
偏った考えが、「現実主義」という諦めを誘発します。

人間らしさをもっと認め合ってしまえばいいのだと思います。
でも、日本人にはなかなか難しいのでしょうか。
しかし、その精神文化は、地球温暖化など、
全人類で向き合わなけれなならない課題を解決していくにあたって、
あまりプラスには働かないと思われます。

日本人の精神性のバージョンアップが待たれますね。

それにしても、
日本人のメンタリティは分析対象としてとても興味深いと思います。


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