立憲代表選がもたらしたもの・日本の「香川1区」化へ
昨日、立憲民主党の代表選挙が行われました。
私が応援していた小川淳也議員は残念ながら落選。
けれど、私は本当に落胆していないのです。
むしろ「今回は」これで良かったと思っています。
負け惜しみではないことを心から誓いつつ、
その理由を少し整理してみたいと思います。
※
そもそも私は小川淳也議員に、
日本の政治のど真ん中で活躍して欲しいという思いがあります。
しかし、そのためには条件があって、
有権者たる我々国民が、もっと自主的に社会を考え、
自主的に意志を持ち、自主的に参加する環境であることです。
環境が整備されていかなければ、
環境整備のために時間がかかってしまって、
社会を変えるという一大事業に取り組めませんからね。
それよりも重要なことがあって、それは「タイミング」です。
今、まだ日本の環境は「そのとき」を迎えていない。
どのタイミングで、どんな人が出てくればいいか、
というのはとても重要で、どんなに優秀な人でも、
打席が回ってくるタイミングが噛み合っていなければ、
単独ソロホームランは打てても、それが打線のつながりとなったり、
大量得点になったり、試合全体のムードを変えることはできない。
そういう現実があるのです。
小川淳也議員はこれまで、地元香川1区で衆院選に挑戦し、
選挙区で勝ったのは一度だけ。
それは民主党が政権を取った2009年だけで、
あのときは日本中の空気が自民党おろしの風に包まれていた。
そういう意味では、純粋に自分の力でもぎ取った勝利というのは、
今回が初めてかも知れないですよね。
ここまで18年です。
小川議員は、誰も注目していない頃から18年かけて、
ひたすらに地元、香川1区という場所で対話をつづけ、
つづけて、つづけて、つづけて、香川1区という場所を、
日本で唯一、まっとうな民主主義が行われている場所に変えたわけです。
そこには、もちろん大島新監督による「なぜ君は〜」があった。
そういうものも、すべて導かれたタイミングによる運という必然なのです。
だって、小川さんの態度が普通の政治家だったら、
大島監督も17年間も、映像の対象としては
小川さんを追いかけつづけはしなかったでしょうから。
そこには、最初から何か感じさせるものがあったのでしょう。
あの映画の役割は、地方の片隅で人知れず起きている「戦い」を
衆目に晒すことでした。
その裏側で、誰が泣き、誰がもがき苦しんでいるのかを、
開示することでした。
そして、この映画が世間から必要とされたのは、
やはりコロナ禍が主要因でしょう。
人は外出できなくなり、その目が自然と国会へと向かいました。
そしてそこで見た政権与党の本当の姿。
進まぬ国民への補償とウイルスへの対応。
日本人は戦後初めてと言っていいような、精神状態に置かれましたね。
それらのいくつもの力点が、香川1区という場所に
グランドクロスのように集まって、
香川1区は猛烈な勢いで熱化し、変化し、
小川淳也を勝利させたのでしょう。
選挙区で勝つことが、小川議員が党の代表選に挑戦するために
自らに課した条件でした。その条件は、いよいよクリアされたわけです。
※
しかし、どうでしょう。
もともと先の総選挙では、野党は共闘、そして政権交代が叫ばれたし、
少なくとも、私のように社会の変化を望む者にとって、
第一義的にそこにあったのはやはり「政権交代」でした。
選挙区における候補者の調整は、自公を倒す以外には目的はなく、
「政権交代を本気で目指すなら」という理由以外はないのです。
立憲民主党に利するだけのことをしても、
そこには理屈はないのですからね。
先の選挙でもし政権交代が実現していたら、
総理大臣は枝野幸男さんでした。
つまり、小川淳也議員が立憲の党首になって総理大臣になるには、
まだまだ時間的な経過が必然的に必要だったわけです。
しかし、立憲が負けたことがきっかけとなって、
今回の代表選は突然、現れたのです。
それは、衆院選に向き合っているときには、
誰も考えなかったことでしょう。
コロナ禍もあり、まさか野党共闘が議席を減らすことは
想像だにできなかったからですね。
そう考えてみると、まず小川淳也という人物が、
今こうして党首選を戦ったという事実だけでも、
奇跡に近い巡り合わせです。
そして、党首選に名乗りを上げ、20名の推薦人を集めるという経験の中から、
これまで単独で走り続けてきた感のある小川議員の中で、
「党内での仲間」という視点が再確認されただろうし、
応援する方もまた、
小川議員のやり方という新しい視点が生まれたはずです。
そしてこの10日あまりの選挙戦をウォッチしていた人なら
誰もが感じたであろう、
4人の候補者の目を見張るようなバージョンアップ。
4人はそれぞれが候補者となり、しかしともに行動し、
同じ場に立って戦うことで、政治家として、
今までにはあり得なかったような経験を重ね、
ひとりひとりが今までの何倍も優れた政治家になっているはずです。
この党首選があったのと、なかったのを想像してみれば、
この10日間が立憲民主党だけでなく、日本の民主主義にとって
どれだけ有意義であったか、
ということを私は実感せずにはおれないのです。
※
小川淳也議員は、スケジュールの許す限り有楽町の街頭に立ち、
「演説」ではなく「対話集会」を開きました。
そこでは我々のような一般人が、直接、国会議員である人物に
想いを届けることができるわけです。
それが素晴らしいことであるのは、誰にでも想像できるでしょう。
しかし、ここでより重要なことは、
我々はお互いに生身の人間である、という実感を共有できたことや、
そこに集まった者同士も、連帯や連携の意識を持てることなのです。
そしてそれこそが、本当の民主主義の始まりなんですね。
民主主義を健全なものにするには、我々のような「普通の人々」が
日常的に政治の話をできるようになる必要がある。
それには環境面の整備と、文化面の成長が必要です。
先日、イギリスのグラスゴーで行われたCOP26の様子を
参加していた人に伺うことができたのですが、
私が何より驚いたのは、それは町をあげて行われている一大イベントで、
町の中の至る所で、市民が主催する勉強会が行われていたというのですね。
市民のレベルのちがいです。
よく温暖化やSDGsは、欧州が新しい利権を産むためにやっているのだ、
などというくだらない言い訳に逃げている日本人がたくさんいますが、
そういう言説も含めて、日本市民の意識レベルの低さというのは、
国際社会の中でも非常に厄介な問題だと思うんです。
なぜなら、日本は今でも責任ある先進国のひとつだからです。
日本人は、もう変わらなくてはいけません。
カッコつけでも、綺麗事でもなく、です。
これを綺麗事と言うなら、世の中は日本人が想像しているより
ずっと綺麗なのだ、いや、綺麗でなければならないのだ、
ということに気づくべきなんですね。
「どうせみんな汚いんだろ?」という集団的な思い込みが、
日本人全体を本当に薄汚くしてしまっているのです。
世界は、そんなに汚くない。綺麗にならなければ、と必死です。
そういう市民が、動き出しているのが、「地球のリアルな今」なのです。
※
市民の意識とは何か?というと、それは「文化」なんですね。
文化というのは、そこに生きる人々の中に「あって当たり前」
「こうするのが当然」と思われている
共通意識や行動のようなものですよね。
意識の高い人が何人かいる、というのは文化ではありません。
しかし、そこまででなくとも誰もが少しは意識している、というのは、
文化であると言えると思います。
そして民主主義という考え方は、
そこらじゅうで市民が政治の話をいつもしている、という文化を
必要とするものなのです。
話をすれば、同じ主張の仲間ができるし、
仲間が集えば、権力に対してデモを行ったりもしますね。
そういうことは、「おかしなこと」ではなくて、
民主主義の中ではふつうのことであって、
逆にそういうことがなかったり、やってはいけない雰囲気があるなら、
それは民主主義が異常な状態になっている、ということなのです。
私が今回の代表選が日本の民主主義にとって
大きな意味を持っていると思った理由は、
小川淳也議員が、ほぼ毎日、有楽町の同じ場所に立って、
「青空対話集会」をしたことです。
同じ場所だったことも、今後は一考の余地がありつつも、
今回は非常に重要な意味があったと思います。
「あそこに行けば会える」という共通認識を作れたからです。
そして、それを毎日毎日つづけたことで、
そこには政治的な言論空間が広がっているという
共通認識を持つことが少しずつ醸成されたからです。
これは、先ほど書いた「民主主義を文化にしていく」
というアクションの始めの一歩なのです。
しかもこの対話集会を通じて、
小川議員は香川1区ではない場所にいる市民の生の声に接し、
ご自分の中でも多くの化学反応が起きたことを吐露していました。
(化学反応という言い方はしておりませんが)
ジェンダーの問題も含め、やはり新しい一歩を踏み出せば、
必ず新しい成長があるのだ、ということを、
みんなで体験し、実感し、共有したのが、
「青空対話集会」だったわけです。
同じような取り組みを、山本太郎さんもずっとやっています。
どっちが先か、という議論は意味がありません。
それより「対話している」ということが重要で、
これは、どこかの政党のオリジナルでもなく、
どこかの政治家のオリジナルでもなく、
政治家と名のつく人間がみんなでやるべきことです。
そうすれば、そのうち政治家ではない人も、
どんどん街頭に立って声を上げるようになるでしょう。
これこそが、市民がみんなで社会に参加し、社会を動かす仕組み、
民主主義の世の中なのですよね。
そして、もうひとつ重要なことがあります。
先ほど私が「政治家」と書いたのは、
主に野党の政治家をイメージして書きました。
なぜなら、この資本主義社会は「持つ者」と「持たざる者」という
大きな分断の中に置かれていることが仕組み的な事実であって、
その中で「持たざる者」が虐げられやすいのも必然なのです。
そして、両者の関係を少しでも均衡させるために重要なのが、
「民主主義」という考え方なのだ、ということなのです。
今の野党の政治家は、簡単に言えば「持たざる者」のための政治家です。
(一部、異なる政治家、政党もいます)
だからこそ、町に出る意味があるのです。
はっきり言えば、自民党の議員は町に出ることはできません。
彼らは「持たざる者」の方を向いていないグループなので、
アウェイの「庶民の住む町」には出てくる必要がないし、
出てきたくないのです。
そういう現象を通じて、我々一人一人が、
「この社会はどういう構造になっているのか」ということを
みんなが知っているという状況も、しっかり醸成されるのです。
そうなれば、「持つ者」も対話の姿勢をとるしかなくなるんですね。
だってこの世はみんなで生きている社会なのですからね。
自民党の人たちがいちばん恐ることというのは、
市民が普通に政治の話をしているという状況、そういう文化なのです。
※
冒頭に、小川淳也さんは、今回は党首選に負けて良かったのだ、
ということを書きました。
それは、今の段階では党首になることよりももっと重要な使命、
ミッションがあるからです。
それは、日本中で青空対話集会を行なって、
日本中を香川1区に変えていくというミッションです。
それが行われない状態の日本では、たとえ政権交代が起きたとしても、
それは突風であって、主体的に社会を転換していく力ではない。
泉ケンタさんが党首になって、立憲の再建に乗り出すでしょう。
その流れの中で、小川淳也がやるべきことは、
「日本全国の香川1区化」であり、「民主主義の文化化」に他なりません。
それができる人材は、この地球にそれほどたくさんはいないのです。
そう考えると、意外と時間がないし、人員も足りません。
小川さんには次の党首選までしか時間がないのかも知れないのです。
もちろん、これは小川さんだけでやるものではない。
マクロな視点でいえば、この「民主主義の文化化」は、
山本太郎さんとも共同でやっているようなものなのです。
そして、様々な魅力ある人物が、どんどんこれをやっていくことで、
日本の民主主義文化を根っこから変えていく。
これは最初は大変でしょうが、ある段階から指数関数的に変化します。
なぜなら、市民の中から新しいローカルなカリスマが
生まれてくるからです。
民主主義が根っこから変わった結果が、
じつは選挙の結果となって現れるだけなんですね。
選挙の本当の姿とは、日々の対話の結実に過ぎないのです。
民主主義の文化が浸透したなら、
政権交代なんて思いのほか、軽々と起こる気がしています。
そのような「日本人のミッション」を考えると、
小川淳也代表の誕生は、まだ「とき」ではなかったのです。
※
さぁ、ここからが新しいスタートです。
変わるのは、我々、ひとりひとりです。
変えるのも、我々、ひとりひとりです。
政党に関わらず、イデオロギーに関わらず、
仲間をどんどん増やして、「対話」で文化を作っていきましょう!