見出し画像

「身近な人も救えない人間に、世界を救えるのか」問題

私は常々思うことがあるのですが、
なぜ人間というものは、ある目的の実現を欲しているのに、
そのためにやる行動が、その実現を自ら阻むものだったり、
真逆の方向だったりするのだろうか、ということです。

お金が欲しくて、お金を稼いで、どんどん心が荒んでいくとか。
豊かになりたくて、長生きしたくて、どんどん地球を破壊するとか。

まったく不思議です。

そこから思うに、多くの人間の直感はだいたいが勘違いであって、
事実はその逆であることの方が多いのではないか、と思います。

例えば日本は30年も賃金が上がっていなくて、
それが国力の衰退と直結しています。
この問題はかなり深刻なので、
国が企業に「賃金を上げなさい」と提言しています。

そして企業に賃金を上げさせるために、
「賃金を上げた企業には税を優遇する」という措置をとると。
言うことを聞いてくれたら税金負けてあげるよってことです。

しかしですね、そもそもなぜ賃金が上がらなくなったのか、というと、
法人税を引き下げたからなんですね。
法人税が高いことが、
せっかく稼いだ金を国に取られるくらいないら
「使ってしまおう」という圧力となって

社員の給料にしたり、
あるいは次のビジネスのために設備投資をしたりして
お金を手元に残さないようにした。
それが結果として経済を回す活力になっていたわけです。

お金は貯めることではなく、使うことで経済を回すものだからです。

ところが法人税率が下げられたことで、企業は
「これくらいなら税金を払ってしまった方がいい」という判断になった。
使ってしまうより、素直に税金を払ってしまった方が
手元に残るお金が多くなると気づいたので、
わざわざ設備投資したり、社員に分配することをやめたわけです。

それが空前の「内部留保」を生んでいますよね。
一部の人間が巨額のお金を貯めることというのは、
経済という生き物にとっては死を意味しています。
お金は血液であり、循環しないと病気になります。

今まで政府が、経済のために「良かれ」と思ってやってきたことが
あらかたすべて逆だったから、
今の日本はこんなに貧しい国になったわけですよね。

ここでいう貧しい国とは、貧しい人の数が多い国、という意味です。

直感的な思いと本来なすべきことが逆の例は、
「税金の無駄遣い」にも言えますね。
多くの人が公務員の給料を安くしろとか、
国会議員の数を減らせとか言います。

しかし実際のとこと、国のお金というのは海外からものを買うぶんや、
海外の援助などに使うぶんを除けば、全額が我々日本国民に支払われます。
ですから、経済の状況を良くしていくためであれば、
国のお金はどんどん使われた方がいいのです。

問題はその使われ方です。

お金が少ないところに使われれば、そのお金は社会の中を回ります。
お金をたくさん持っている人たちに使われれば、
そのお金は滞留することになります。

ですから、例えば極論で言えば、国会議員の給料を上げるのではなく、
そのぶん生活保護の人への支給額を上げた方がいいのです。
そのお金はほぼ全額使われますから、
結果的に地域の人々みんなのお金になるからです。

それなのに、多くの人が生活保護受給者を責めますね。
そういう精神が、日本人を経済的に貧乏にしてきたのです。
本当に必要なことは、大体の場合、直感と逆なのですね。

事例をたくさん出してしまいましたが、
今回、本当にお話ししたいことは表題の件なのです。

世の中にはこんな意見があります。

「身近な人も救えない人間に、
 世界を救えるわけがない」

これ、直感的に正しいように感じます。
世界は身近な社会の延長線上に存在するように見えますからね。
大きな目標を達成するためには、
目の前の一歩から始めなければならないのは当然です。

どんなに高い山でも、その山を踏破するためにやるべきことは
足を一歩前に出すことです。
そうせずに、いきなり山頂へと届く方法はありません。

ただし、これは「踏破」つまり歩いて登ることを目標にした場合です。
頂上に行くだけなら、ヘリコプターでもなんでも使う方法はある。

歩くのが得意だったり好きな人もいれば、
ヘリコプターの操縦が得意な人もいる。
二人は得意なことはまったく違うけれど、山の頂上には行ける可能性があります。

けれど、山を歩くのが得意な人に、無理にヘリコプターを操縦させたり、
ヘリのパイロットに歩いて登山をさせたら、
きっとどちらも山頂へは届かないでしょう。

これは山に登ることのイメージを固定概念化させ、
それを他者に強いることによって起こる「失敗の法則」だと思うのですね。

人は得意なことがそれぞれにちがうのです。
それなのに、人は他者に対してひとつのことを短絡的に押し付けます。
そうすることで、結局みんなで目的達成に失敗しているのです。

私はここで、身近な一歩が無駄だと言っているのではありません。
人が直感的に正しいと感じていることが、
勘違いの場合が多いと言いたいのです。
そしてその勘違いが、目的達成の邪魔になることが多いということです。

例えば社会課題の解決についていえば、
身近な一歩から行動することが重要です。
この場合は身近な一歩が世界の変化と直結しているからです。

しかし、多くの人が「そんな小さなことをやっても無駄だ」と思ってしまう。
だからやらない、ということになってしまう。
でも、それもまた逆なんですね。
小さなことが積み重なって大きなことになるのではなく、
小さなことをやってみることで、「意識」が変わるのです。
意識が変わっていくことで、世界の常識が変わっていくのです。

このロードマップは、多くの人が想像しているものとはちがいますよね?
人々の意識を変えるためにエコバッグがあるのであって、
エコバッグそのものが地球温暖化を止めるのではないのです。

エコバッグに変えれば温暖化が止まると思っているから、
温暖化が止まらないとエコバッグなんて無駄だと思ってしまう。
でもそれは勘違いです。

エコバッグの目的を勘違いしている。

エコバッグの役割は使い捨てという生活習慣を変えることであり、
「エコバッグの次は何をする?」という発想の起爆剤になることだったのに、
この失敗は、エコバッグ自体が解決策だと勘違いされたことです。

エコバッグに変えても、何も課題が解決しないとしたら、
それはエコバッグが悪いのではないし、それが無駄だったのでもなく、
伝え方が間違えていたと言うことです。

ですから、次のステップでは「エコバッグは無駄だ」ではなく、
人々の意識変容がその役割だったと言うことを気づかせ、
次はどうすべきかを考えることなのです。

勝手な勘違いは、だいたい間違えていることが多いのです。

表題の件をもう少し深掘りしたいと思います。

例えば貧困の子どもたちを救う方法として、子ども食堂があります。
そのようなものを運営する人たちには本当に頭が下がります。
このような足元からの支援は絶対に必要です。
が、子ども食堂さえあれば子どもたちの貧困が解消されるかと言えば、
それはちがいます。

やはり国が本気になって、上からの対策をする必要がある。
それは子ども食堂を支援することではなく、
そもそも子どもを貧困にさせない仕組みづくりです。

このように下から上への矢印での行動と、
上から下への矢印の行動は、目的は一緒でもやることはちがいます。
やることがちがうのですから、
向き不向きもちがうということですね。

このような目的を達するためには、それぞれが自分の才能を活かして
それぞれの場所から行動することで、有機的に作用していきます。
そして双方から掘り始めたトンネルがいつか真ん中でつながるように、
下からと上からのアクションがつながるのだと思っています。

なんとなくイメージわかりますでしょうか。

例えば、保育士さんというお仕事があります。
小さな子どもたちを相手にする仕事です。
ですから、世の中の人は、保育士さんが自分の子どもを育てる時も
非常に順調に育てられる「べきだ」と考えます。

だから、保育士が自分の子育てに苦労している話を聞くと、
例のロジック、「身近な人も救えない人間に、世界を救えるのか」を
持ち出すわけですね。

教師も同じですね。
教師のお子さんが不良になったりすると、やはり人々は言います。
「自分の子も教育できないのに、よその子を教育できるのか」と。

でも、これ、まったくちがうことなのですよ。
「自分の子」と「よその子」はまったくちがうものです。
家庭での教育と、学校での教育は根っこからちがう。
だから、よその子にはできることが自分の子にはできない、
というのは、まったくもって当たり前のことなのです。

みなさん、赤の他人とひとつ屋根の下に暮らす家族、
まったく同じように付き合っていますか?
ちがうはずです。
言葉遣いから、態度から、すべてがちがうはずです。

家族と、家族ではない人というのは、まったく別世界であることを
誰もが知っているはずですね。
それなのに、家族を幸せにできない人が世界を幸せにはできない、
などとトンチンカンなことを真顔で言っています。

家族を幸せにすることと、世界を幸せにすることは、
ひとつのライン上にあることではありません。
家族の幸せの延長線上に世界の幸せが存在するのではありません。

家族に対してできることは、世界にできることではないし、
世界に対してできることも、家族にできることではありません。
両者はまったく別の種目なのです。

歌で世界を幸せにするシンガーソングライターだって、
家の中でギターを掻き鳴らして大声で熱唱すれば、
「やかましい!」と怒られたり
「近所迷惑になるから静かにしなさい!!」と煩がられるでしょう。

プロサッカー選手にプロ野球の技能を要求する人は存在しないように、
身近な世界と大きな世界は別なのであって、
それを混同することは基本的には馬鹿げているのです。

芸能人を見ればわかると思います。
多くの人に幸せを提供している芸能人の方々は、
その私生活や親子関係などは破綻している場合が多いです。

それは、普段、多くの人を相手にしている世界にいて、
そのようなことが得意な人だからです。
そしてその犠牲として家庭が壊れてしまうのも、
ある程度仕方がないのかも知れません。

本人の選んだ生き方ですからね。
逆に家庭の中ではとてもいい父親なのに、
会社では冴えないという人もいるでしょう。

もちろん、世の中にはその両方を両立する人もいます。
それだってそれがその人固有の個性なのであって、
誰もがそれをできると思うのは単なる勘違いだし、
それを要求されても困るでしょう。

まず、他者にそういうことを望む多くの人が、
そんなことはできていないはずだと思います。

マイケル・ジャクソンやフレディ・マーキュリーのように、
みんなを幸せにするという使命を帯びてこの世に生を受ける人間もいれば、
世間からはまったく知られることもない、
けれど小さな家庭を守ることに使命を得る人間もいるのが
私たちが暮らすこの世界なのです。

ですから、「身近な人も救えない人間に、世界が救えるのか」問題は、
「身近なことの延長線上に世界が存在していると勘違いしている」問題であり、
身近な人を救う人と、世界を救う人は、多くの場合、別の人である、
というのが現実なのであって、
重要なのは、その両者が自分の才能を活かして、それぞれの場所から
人を幸せにすることだと思うのです。
双方から掘り進めたトンネルが真ん中で繋がるように、
両者が有機的に作用することを最善とするしかないのだと思います。

稀に両方できる人がいるからといって、
それが「ベストなのだ」と勘違いしないことです。
この世に「完全な人間」は存在しないし、絶対の答えも存在しないのです。

我々は永遠にたどり着けない答えを求めて
努力することしかできないのです。
そして答えを探し求める一日一日が積み重なって、
人間の営みとして歴史を作っているだけなのです。

結論も結果も、永遠に出ません。
寄せては返す波のように、
そのときそのときで、正しいと思われることが変化するだけなのです。

その「不確定性」を受け入れ、
そこにこそ真実があることに気づくことができるか。
それに気づいたときに、もう一度、あの問題を見返して欲しいのです。

「身近な人も救えない人間に、世界が救えるのか」

どうですか?
なんと愚かな問いを立てていたのだろう、と思えてきましたか?
もしそうだとしたら、自分の既成概念を少し壊せた証拠だと思います。

我々は宇宙に身を委ねるしかない立場です。
それを受け入れることで、
他者をとやかく言いたくなる「エゴ」や「自我」から解放され、
人生というほんのわずかな時間の束の間の自由に
幸せを感じられるようになるのではないでしょうか。

いいなと思ったら応援しよう!