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マクロに思考し、エゴの無意味を自覚する。

最近のデジタル技術の進歩によって、
今や私たちは、つい今し方の地球の姿を画像で見ることができます。

地球というと、今では誰もがどんなイメージかを
頭に思い描くことができると思いますが、
人間が本物の地球の姿を見たのは、
ソ連が世界初の有人宇宙飛行に成功し、
宇宙飛行士ガガーリンが「地球は青かった」という名言を残したときで、
それは1961年です。

それから60年後、今では誰もがパソコンやスマホの画面で、
衛星から送られてくるつい今の地球の姿を
高精細な画像で見ることができるのです。

これは何を意味しているのか。

私は「視座が上がっている」と解釈すべきだと思うんですね。

この画像には実際には写っていませんが、
この地球の画像をどんどん拡大していくと、
そこには私やあなたがいて、
そこにリアルな暮らしの様子が写っているのです。

そう想像してみて欲しいのです。

我々ひとりひとりは別々に生きていて、
互いに対立したり、いがみあったりしながら生きていますが、
それらは高い視座から見れば、ほぼ意味のないことなのです。

例えば、想像してみてください。
このような画像やグーグルアースのような画像を
100年前から見ることができたら。
我々は先の戦争をすべてこの視座から見ることができました。

アウシュビッツも、東京大空襲も、広島や長崎の原爆も、
すべて映像に記録され、町と人々のくらしが、
一瞬にして焦土となり、焼け野原になる一部始終が記録されていました。

しかし、当時の人類は、このような視座を持ちませんでした。

視座というのは、ある意味では「冷静さ」と同義だと思うんですね。
主観と客観のちがいと考えてもいいと思います。

つまり、当時の人類は、
「自分たちが今なしていることの事象の意味」を
少なくとも現代よりは冷静に捉えることができなかったと思うのです。

それは稚拙だったからではありません。
経験値が少なかっただけの話です。

私がここでいう「視座」は時間軸上にも存在しているという意味で、
我々人類は、毎日毎日積み重ねる時間の分だけ、
確実に人類としての経験値を積んでいます。

世界中が本気で戦争をしたら、どんなことになるのか、
1900年ごろの人類は知らなかったでしょう。
しかし、第一次大戦を経て、人類は世界戦争の恐ろしさを知った。

もう二度と起こすまいと誓ったのに、
わずか30年後にはもう一度世界戦争を起こしてしまった。
しかも核兵器を製造し、それを実際に使用してしまった。

極論で言えば、その頃の人類は、それを使うとどうなるのか、
知らずに使っていたわけです。
経験値がないですからね・・・・

蒸気機関が発明されて産業革命が起こったとき、
まさか数百年後に化石燃料の燃やしすぎで
地球温暖化が起こるなんて、当時の人たちは知る由もなかった。

でも、今の我々はそれを知っているわけですね。
技術の進歩と、時間の積み重ねの相乗効果として、
我々は視座が上がっている、もしくは上がるチャンスを得ているのです。

よく、「歴史は繰り返す」と言いますね。
似たような言葉として、
「二度あることは三度ある」などとも言います。

確かに、日常生活の中でも
同じようなミスを繰り返してしまったり、
同じ場所で何度も躓いたりすることもありますね。

以前に流行したファッションがもういちどリバイバルされたり、
昔、流行った曲がカバーされたりすることもありますから、
なんとなく「歴史は繰り返す」という言葉は正しいように思います。

けれどどうでしょうか。

私たちの存在というのは、否応なく
ときの流れというものと密接に関連しています。

ときの流れは一方通行であって、決して逆戻りはしませんから、
私たちは、いま、これを書き、読んでいる
この1秒1秒さえもが、二度と帰ってこないし、
二度とまったく同じにはならないわけです。

ということは、一見同じようなことが繰り返されているように見えても、
実は同じことは二度とないということなんですね。

「歴史は繰り返す」や「二度あることは三度ある」という言葉が表すのは、
同じような条件が整った場合、
同じ現象が繰り返されるというような意味だと思います。

けれど私は最近、確信しているのです。
「歴史は繰り返さない」と。

もちろん、似たようなことは起こるんです。
でも、絶対に前と同じではない。何かが少し異なっているはずなのです。
なぜなら、経験が積まれるからです。
それは人間の精神面でもそうですが、物理的にも言えることです。

なぜ、このようなことを思ったかというと、
熱力学の法則が頭の中に入ったからなのですが、
それの詳述はここでは避けるとして、
物質Aと物質Bを混ぜたときの反応のような、
何度やっても同じ結果になるように見える理科室の小さな化学実験でさえ、
地球全体で厳密に厳密に見れば、前回とは少しだけちがうのです。

だって時間が流れていて、地球の経験値が変わっていますからね。
AとBが混ざることによって、この世からAとBが微量に減っている。
その事実が何を意味しているのか、今はわからないけれど、
確実に地球の様子は変化している。

人間には見分けがつかないような微差だけれど、
時間が不可逆に流れているのだから、前とまったく同じことは起こらない。
そういうことです。

これは、私たちの世界や私たちの体の中に常時起きていることで、
私自身、昨日の私と今日の私は同じではないのです。
それは、心も体も、両方です。

これは精神論や、スピリチュアルな意味ではなく、
物理的な事実だということですね。

ちょっとだけ思考実験の旅にお付き合いください。

冒頭の地球の映像。
これは本当についさっきの地球です。

ちょっと想像して欲しいのです。
宇宙空間には基本的に音はありませんから、
地球は秒速10万7千キロというものすごい速さで
太陽の周りを回っているわけですが、
音は出ていません。

無音で回っているのです。

それを想像してください。

その営みを、現在までの段階で約46億年もつづけています。
地球の軌道は長い時間の中で正円に近くなったり、
楕円に近くなったりすることで、太陽との距離が変わり、
それだけのことで氷河期があったり、暑い時期があったりしていました。

そしてこの地球の表面で生命が生まれ、
進化や絶滅を繰り返して、やがて約20万年前に人類が誕生します。
地球の歴史46億年を1年におきかえると、
人類の誕生は12月31日の午後11時37分なのだそうです。

我々人類が毎日当たり前のように「考える」ことをするようになったのは、
その媒介となる「言語」が生まれたからですね。
私たちは言葉がなかったら話せないだけでなく、
考えることができません。

過去に起こったことを記録できないし、未来を予測することもできません。

つまり、言葉の誕生が人類の発展の大きなきっかけです。
それは恐らく今から5万年前とされているようです。
人類が考えるようになって5万年しかたっていない、ということです。

言葉を持つようになって
私たち人類は様々な「意識」を持つようになったわけですが、
言語以前には意識そのものがなかったわけです。

それは戦前まで日本に「人権」という意識がなかったり、
英語には「肩こり」という言葉がないために
アメリカ人には肩こりの人がいないのと同様で、
言語=意識が存在しなければ、そのものが存在しないのと同じなのです。

意識は、人間だけが持つものですね。
少なくとも、この地球上では。

さて、ここで考えてください。
今日は何月何日ですか?
今は何時何分ですか?

明日のあなたの予定はなんでしょうか?
カレンダーやスケジュール帳を確認してみてください。

そんなこと、人間は毎日当たり前にやっています。
しかし、これは非常に驚くべきことなんですね。

なぜなら、この時間の概念そのものが、
人間が意識で作り出したものであって、
絶対的なものではないからなのです。

言葉を持たない我が家の二匹のネコたちは、
今日が何月何日なのか、今が何時何分なのか、知りません。
昨日の記憶もなければ、明日の予定も知りません。

恐らく、明日という概念がない。

私たちは地球が太陽の周りを1周する時間を1年とし、
それを365日でわけ、
さらに12で分けて1ヶ月という概念をつくっています。

1週間を7日にわけ、そのうち何日働くとか、
日曜日は休みだとか、みんなで決めているけれども、
宇宙には日曜も月曜もそもそもないですよね?

カレンダーを作ったおかげで、まだ来ていない先の日について
考えたり、普通に予定を立てたりする。
けれども、本当は、その日、そのときに、
あなたや私が生きていることさえ、確実ではないのですね。

わかるでしょうか?

地球は46億年も、音をたてずに太陽の周りを猛スピードで回っていますが、
それが46億年であることさえ人間以外、誰も知らないのです。

地球は意味もなく、ただひたすら、太陽の周りを周り、
いつか星としての寿命が来るまでそれをつづけるだけなのです。
そこに「何年くらい回った」とか「何周くらいまわった」なんていう
意識は全く存在しない。

意識は、偶然地球上で人類というものが誕生し、
言葉を発明させたことで生まれたものであって、
人類がいなくなれば、また消え去るものだということですね。

それが事実なのです。

さて、何が言いたくてこの文章を書き始めたのか、というと、
今、我々人類が抱えている課題というのは、
そのすべてが、人間が意識を持って思考することで、
勝手に作り出したものなわけですが、
経済も、お金も、時間も、
実はすべてが人の作った妄想のようなものであって、
それほど深い意味はないのだ、ということです。

その究極的に高い視座から、
地球と時間というものを見下ろすとき、私たちは初めて、
今抱えている問題の本当の意味を理解できるのではないでしょうか。

そしてそうすることで、本当の解決策を見出せるのではないでしょうか。

人類が試してきたすべての論理的思考も、
思いつきや思い込みなのかもしれません。

だとしたら、今まで「当たり前」だと思っていたすべての常識を捨てて、
新しい領域を探し始めた方が、楽しいのかもしれません。

人間の歴史は、決して繰り返してはいません。
時間は前進しかしませんから、同じように見えていても、
実は前と同じことは絶対に起きない。

それが事実です。

そこには、人類という種としての積み重ねがあるからです。
例えば核戦争をすれば、地球が破滅することがわかっています。
わかっていながら、それをやってしまうのが人類でしょうか?

私はそうは思いません。

二度あることが三度はない場合もある。
なぜなら、一度目と二度目の関係と、
二度目と三度目以降の関係はまるでちがうからです。

そこでの経験や学びがちがうからです。
持っている意味や意義がまるでちがうからです。

二度と繰り返さないと誓った過ちを
たやすく繰り返してしまったとき、
そこには、最初のときとは根本的に異なるメッセージが存在しています。

それを解釈できないほど愚かなら、
また同じことは繰り返されるでしょうが、
そのときの結末は前回と同じではないですよね。

人類は有史から2020年というときを重ね、
依然、学びの中にあります。
昔はミクロにしか考えられなかったことを、
今はマクロな視点で捉えられるようになっています。

それをどのように活かすかが問われていますね。

思考をミクロとマクロで行き来しながら、
ミクロな出来事が持つ本質的な意義を
マクロに解釈していく必要があります。

その理由は恐らく、人のエゴの無意味性を自覚するためです。
それが、人類が今日も歴史を積み重ねている意義なのだと思います。

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