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人間はなぜAIをつくるのか

11月だというのに、信じられないくらい暑いですね。
私は今、家の中でタンクトップでこのブログを書いています。

それにしても、AIやロボットの技術進展が著しいですね。
でも、ちょっと不思議に思うことがあります。
人類は必死で人間のようなものを作る一方で、
その造作物によって自分の仕事や未来が奪われることを恐れています。

そんなに怖いなら、そんなものは作らなければいいのに、
なぜか取り憑かれたように、
人間のようなものを自らの手で作りたがる。

工場で活躍する産業用ロボットは
姿カタチは人間に似ていませんが、
なんとか人間に似せたいという衝動もありますよね。

AIは姿は人間ではないですが、
思考の仕方は人間の癖のようなものを
シミュレーションできているほど高性能ということですし。

なぜでしょうか・・・

いま、ロボット開発がどこまで進んでいるかを知るために、
boston dynamicsなどをYouTube検索してみるといいでしょう。

そこでは生きた犬にしか見えない動きをする
4本足のロボットなどの映像があります。

それを観て私が素朴に感じる感覚は、
「そこに命がない不思議」なんですよね。
まるで生きているように見えるのですから。
でもそれは機械の塊であって生きていないのです。

そこには生命はないのです。

では、生命って、いったいなんなのでしょうか。
生きているものと、生きていないもののちがいは
なんなのでしょうか。

私たち、人間と、そこらへんにある石ころは
なにがちがうのでしょうか。

私たちを構成する物質をどんどん拡大していくと、
分子や原子であって、さらにそれを拡大すると、
それ以上、分けることのできない最小単位である
「素粒子」になります。

それは私たち人間も、石ころもまったく同じなのです。
素粒子までいかないとしても、分子レベルで考えても、
私たち人間と石ころは、同じように分子でできていて、
実はなんの違いもありません。

では、生きているとは、どういうことでしょうか?

アインシュタインが導き出した
エネルギーと質量の等価性を表す式、E=mc2をみるとわかるように、
物質はエネルギーそのものなんですね。

私たちの体も物質なので、
つまり私たちはエネルギーなのです。
しかもそれは、私たちが生きているか、死んでいるかは関係なしにです。
生命は死んだってエネルギーなのです。

当たり前ですね。

私たちがエネルギー源として食べているお肉は、
すべて牛や豚、鶏といった動物の死骸です。
死んでしまうと朽ちていってしまうだけで、
生きていても死んでいても、
物質がエネルギーであることは同じです。

そして石ころも、当然エネルギーです。

つまり分子のレベルで考えれば、
私たちが石ころとちがうかどうかは、
私たちが生きているか死んでいるかとは
無関係だということです。

では、思考や意識はどうでしょうか?
私たち人類は脳を持ち、言語を発明し、
意識を持ったり、思考したりすることができます。

その点は石ころとは完全にちがっていそうですよね。

私たち生命は考えることができるから、
生命ではないものとはちがうのだ。
そう言える気がします。

でも、本当にそうでしょうか?

思考は脳が行いますが、
私たちの脳は、やはり物質の塊なのであって、
物質が集まったものが
情報を伝達したり記憶したりする「機能」を持つだけです。
それは心臓の機能が体内に血液を送ることであり、
筋肉の機能が収縮して体を動かすことであることと同じです。

意識を持ち、考えるという機能を脳が持っているだけ。
その脳が自分を意識し、自分が生きていることを認識できるだけで、
そのことと私たちが生命であることは
必ずしもイコールではない可能性もあります。

つまり、無生物も思考できる、という可能性です。

例えばコンピューターは、計算をすることができます。
計算をすることと「考える」はちがうことのように思えます。
しかしその「考える」という作業を「あり・なし」というレベルまで細分化し、
小さな単位の膨大な計算を再構成することで、
コンピューターも「考える」ということができるかも知れません。

そうなると、コンピューターは、生きてはいないのだけれど、
生き物のように思考していることになります。
それがどんどん進化すれば、人間の心のようなものも
プログラムすることができて、
そこに「人格」のようなものを宿すことも可能でしょう。

彼らは食事をする必要はありませんが、
やはり作動するにはエネルギーが必要なので、
なんらかの形でエネルギーを摂取します。
それは恐らく電力でしょう。

もし自分で体力が落ちてきたら
自分で充電をするという機能を持たせられれば、
それは人間がエネルギー摂取のために
自分で食事をすることと同じことです。

そうやって彼らは生き物ではないけれど意識を持ち、
心を持ち、人格を持つようになるかも知れない。
そうなったとき、そもそも生き物かどうかは
あまり関係がなくなるかも知れないと私は思います。

好意的にではありませんが。

もし人類が、人間とほぼ同じ存在でありながら、
実際は電気で動くロボットと置き換わった場合、
この地球はどうなるでしょうか。

まず、食料がいりません。水もいりません。
再生可能エネルギーから電力を供給できれば、
化石燃料もいりません。
そして人口が変化しません。
(ロボットが自分達で子孫ロボットを作らない限り)

そうなると、いま、人類が生み出したさまざまな課題が
大幅に抑えられる可能性があります。

もし、人類の争いの原因を詳細に解析し、
その要素を排除するプログラミングがあれば、
宗教や経済格差などを生み出さないかも知れませんし、
そもそも貨幣経済がなくなっているかも知れません。

彼らはそれ以上は環境負荷をかけることもなく、
ただ、この宇宙に浮かぶ地球という惑星の中で、
勝手に蠢く無生物として存在しつづけるということになります。

そう考えると、とても不思議な気持ちになります。

いま、人類は持続可能性の問題に直面しています。
それは、この地球が気候変動を起こし、
人類が生きられないほどの環境変化に陥ることで、
その結果、人類は自らの手で種の終焉を迎えるということです。

人類がなぜ追い立てられるように
必死になって自分たちにそっくりな人造人間を作り出そうとするのか。
そのことと、この己の性質によって引き起こされる
人類の持続可能性の問題が、関係しているように思えてなりません。

それは、人類が本能的に、人類絶滅後にも存在できる
人造の「子孫」を残そうとしているのかも知れないという推測です。

彼らは生き物ではないので、生身の人間より長持ちしますし、
温暖化し、生物が生きられない地球環境になっても
作動しつづけることができます。

また、ロボットたちなら、
宇宙の中で避けられない「隕石の激突」などの事象に対しても、
恐怖心を抱くことなく、最後の瞬間を受け入れられるかも知れません。
その前までに、生き物の方の人類はすでに絶滅している想定ですが。

人類が、互いから奪い合うという性質の末にやがて絶滅し、
その後の地球上で人間の存在の記憶をとどめるために、
人類は、「命ではない人間」を開発しているのかも知れません。

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