
藤原歌劇団「ファルスタッフ」
東京文化会館でファルスタッフ
まず、一幕一場で、「名誉」への考え方によってファルスタッフの性格やポジションが描写される。さらに居酒屋ガーター邸の舞台美術が情報過多なこともファルスタッフの性格や位置付けを表しているのかもしれない
一幕二場では、フォード家のそばの庭のセットに用意された小さな家形の道具の使い方が興味深い。これらの家形セットで街を現しつつ、その家形を小道具的にも用いるというのはなかなか面白かった。
この物語の主軸はファルスタッフとシェークスピア原作タイトルのウィンザーの陽気な女房たち3人のドタバタだが、ここにナンネッタとフェントンという若い二人の関係性の対照軸を用意し、かつ、この対照軸を独立させず本筋にビルトインさせることで、物語が観るべきものになる
対象点については、これだけではなく多様に展開される、そのことが物語を複層化させ、豊富化する
二幕では、ガーター邸が少し片付いていてわかりやすくなっている。このあたりはファルスタッフの心象風景とシンクロするのだろうか。こちらに開く台形のセット、壁には動物の頭骨がかかっている。
このあたりで、赤い服のバレリーナである小姓ロビンの存在が気になる。生きている背景、状況を暗黙に説明する、ストーリーに反応する存在。確かに、こうした存在があったほうがストーリーに凸凹ができて、楽しい。ファルスタッフでの小姓ロビンの扱いとしては、こういうのって一般的なのだろうか。小姓ロビンなどの「黙役」をどう演出するかはなかなかに興味深そうだ
演出と言えば、群衆の使い方が上手いなあと思った。多人数と少人数の迅速な使い分けも目を引いた。
さらに、前景と後景を観衆にははわかっているが、登場人物としては見えていないという設定はそう珍しくはないだろうが、うまく使えていた
物語を関係性の展開として把握するなら、今回の舞台は、人の関係性という以上に、「仕掛け」の関係性、重なり、丁々発止による物語として捉えることもできそうだ
悲劇を茶化すこと
ファルスタッフを騙し、罠に嵌める、そのファルスタッフが世界は冗談だと哲学的にひっくり返すという構造
ファルスタッフがいるからこそ知性が生まれるという転換も「弱さの強さ」に繋がっていそうで面白い。
ラストの背景がまたガーター邸であることには意味がありそうだ。そしてラストでロビン小姓が真ん中の最上部にいるのは興味深い。ロビンが舞台で歌わないという意味では、ロビンと観客が重なっているとも思える、観客の想いや反応をロビンが代替し、そのロビンが中心の高みにいるということは、多様な解釈を可能にすると考える。
そして、最後に、全員が「生きることは冗談だ」と歌う。そう考えると、できるだけ多くの人が「生きることは冗談だ』と思えるような世界を作ることが求められているのかもしれないとも考えた、深刻すぎる世界は冗談ではない、冗談程度で済む悲劇や、もちろん喜劇のなかで生きられる社会が求めらるというのは深読みすぎるだろうが、そんな幕切れの感慨を持った