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国立文楽劇場四月公演
第一部から第三部までの通しで鑑賞
第一部は、絵本太功記「二条城配膳の段」「千本通光秀館の段」「夕顔棚の段」「尼ヶ崎の段」
切り場語りの千歳太夫が急病で休演とのことで残念。代わりに靖太夫が代演したが、そうなると「切り」ではなく「奥」になるようで、ふむふむ。
武智光秀(明智光秀)の複雑性を提示する作品。単なる悪役でもなく、もちろん善人でもない。
人が周囲の悪辣さから追い込まれていき、自らも悪性を獲得しつつ、生き死にしていく姿。
小田春永(織田信長)への反乱を決心するところで諫言する家臣を殺すところなど、そのあたりがよく見える。
第二部は呂太夫改、第十一代豊竹若太夫襲名披露から。「豊竹」が「竹本」をさらに豊かにするという含意により名付けられたということを初めて聞く。
初代若太夫は豊竹を起こした人物とのことで大名跡。人形浄瑠璃文楽の襲名披露は本人は語らず、三業からそれぞれ話す形式。
その若太夫が語った題目が「和田合戦女舞鶴」。例によっての、主筋を守るための身代わりとしての我が子殺し。
この題目では、我が子に謀反人の子であると誤解させ自ら切腹させる、実母である板額による、そのための一人芝居というところが眼目か。
第三部は御所桜堀川夜討「弁慶上使の段」と増補大江山。
前者はまたも主筋を守るための身代わりとしての我が子殺し。頻発するなあ。
身分により人の命の重さが異なること、個々の命は「家」に代表される大きな脈絡のなかの一つ一つの結び目であること、という前提が、あるわけだが。
この考え方への疑問を提示する作品群でもあるのかもしれない。
大江山はガブの人形も使った、派手な演目。楽しめた。一条戻り橋にこういう物語を埋め込んで考えることと考えないことでは、ずいぶんと見え方は変わるだろう。
襲名披露のあった第二部はそこそこだが、第一部、第三部の客入りは芳しくない。平日でもあるが、襲名披露でも語られた後継者不足もあって、なかなかに厳しいものもありそうだ。
東京では、ほぼほぼ満席近いことを考えると、本場は本場として、検討すべき部分もありそうだ。
また、三業とも女性が全く見られない。このあたりも突破口になるんじゃないか。
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