蝶々夫人@東京文化会館

二期会のオペラ。蝶々夫人を観覧する。ジャコモ・プッチーニ作。演出は宮本亞門。
宮本亞門の演出は独創的なのだろう。蝶々夫人とピンカートンとの間の子どもが、なぜか、舞台をずっと彷徨っている、彷徨っていると言うより、覗いている。
過去による大過去の対象化が行われていると言っていいのだろうか。
「見る男」というものに、多様な意味づけをさせる演出だ。
見る男は、週末の悲劇を知っている存在でもある。

ピンカートンと蝶々夫人の関係は、存在としての関係ではなく、所有被所有という関係として始まる。この所有被所有という関係が、どのように存在の関係になっていくかの物語として考えることも可能ではないか。

この演出では、スズキの役回りが重要だと感じる。ほとんど言葉を発しない彼女が、終末に向けて言葉を話す人になっていく

ボンゾとは単なる悪役なのか。日本の土着的存在として、もう少し複層的に捉えることはできないか

背景に「松」があると、つい、能舞台を考えてしまう。
また、日本家屋のユニット化がとても興味深く、多様な舞台の展開を支えている。この日本建築ユニットを、発想の素材にできないだろうか。
舞台に布が多用されていることも興味深い。言うなれば半導的な意味を持つ存在として。

蝶々夫人とは悲劇と言うより、実は喜劇として受け取られる部分もあったのではないか。

日本人が「蝶々夫人を見る」とは、多様な捻れを抱えた行為だ。そのことには意識的にならなければならない

ラストシーンは感動的だ。人はやはり、やはり救われなければならない

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