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みずゑ会@宮川町

11/16(土)と17(日)の開催。私が観たのは16日。土曜と日曜で演し物が変わる
地唄の「鶴の声」、常磐津「乗合船恵方万歳」。清元「吉原雀」、長唄は、土曜は「五條橋」だったが、日曜は「娘道成寺」となる。最後に両日とも総おどりで「宮川小唄」

立方を務めていた芸妓さんが別のところでは地方で三味線を弾いていることもあるんだな。
乗合船で才蔵を務めていたふく鈴さんが垂れ目なのか、妙に可愛かった。

こうした興業は、座敷の人としての芸舞妓が舞台の人になるという二重性があって面白い。役者にとどまらず、接待者にとどまらない力を如実に見せる場となっている。
いわば「通交する存在」といえるのではないか。通交という意味ではハレとケを通交するということもできるし、ハレを多層化する存在と考えることも可能だろう。

一方で街中で見かける舞妓は、街やその風景を異化しているようにも、多様な発見を促す鍵存在にもなっている、また、風景をブランド化する仕掛けにもなる
舞妓ではない存在で、こうしたことが可能なものもあるのではないか、考えてみたい。

舞踊というものは「視線の芸」だと言うこともできそうだ、視線をわずかに変えることでも指示先を想像させる力がある。
吉原雀で片袖を抜き、赤い襦袢が露わになることで、舞台上の色が急に豊かになる
乗合船は、構成ということを強く意識させられる内容だった

鶴の声の黒紋付の持つ落ち着きと、裾模様、振り袖模様の華やかさの対比も鮮やかだった。
鶴の声でもそうだが、日本舞踊は複数の踊り手の所作をきっちりと揃えすぎないところがいい。観る側に緊張を強いずに緩やかな余裕を創ることができるようにも思う


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