喜多流一月自主公演

この日は観世能楽堂で「老松」「鶴」「鵺」という番組。
「老松」を歌舞伎『菅原伝授手習鑑』に重ねつつ観ることでの多様な意味づけにも言及したいところだが、ここでは「鵺」について述べる。

鵺における「ところの者」という存在。地域在住者としてのところの者と、通過者としてのワキ=僧の対比に注目する。

法に縛られる地域在住者と、法を超越しようとする通過者。守るものがある地域在住者と去っていく通過者。
そうしたワキとアイの両者が存在することで、シテである鵺が出現し、地域における来し方を可視化させる

ここで、この場所が「流れ着いた」場所であることにも注目したい。起きた場所ではなく、流されたことで否応ない「関与」を強制された場所。その関与を主体的に把握しなおす物語として捉えることも可能なのではないか。

また、鵺と頼政が討たれるもの、討つものとしての対義構造を持つ一方で、能「頼政」に示されるように、頼政もまた討たれるものとなることへの興味。
このことが後場において、鵺であるはずのシテが頼政として振る舞うことにより意識化される。

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