喜多流自主公演5月

銀座の観世能楽堂で、能『頼政』、狂言『蚊相撲』、能『半蔀』を鑑賞した。
頼政における、というか能全体での「道行」というものの意味、情景を描写するということの意味を考えたい。このことは土地への名付けということにも関わる。

土地への名付けは、土地(の神、妖)への恐怖を慰撫するために行われるのではないか。
そして、能では、数歩で相当の距離を動いたことして仮想される。高速移動しながら「見えている」という印象

また「遠国にて聞き及びし」ということは、多様な先行経験・先行創作が想像力を引き出すものとして捉えることもできる。和歌にも通じる掛詞による重層化、想像力惹起にも注目する。

「名所を見たい」という僧に対し、はじめはつれなくしていた、シテの頼政が、だんだんと「その気」になっていく=呼び出されていく表現は興味深い。「おもしろき所にて候ふ、よくよく御覧候へ」

能の地謡がギリシャ悲劇におけるコロスと通底するとして、コロスがそもそもどのような役割を果たしているのかをさらに深掘りする必要があるだろう。

私が能において常に注目する「アイ」の意味を今回も考えさせられた。「このあたりに住まいする人」「存じもよらぬことと、詳しくは知らざりし」「さりながら」という流れにおける、定住者・土地の者の言葉が、外来者であるワキに引き出されると読むことも可能だろう。

金色の装束をつけた後シテの頼政の面の、意思というか残「念」というかの持つ「強さ」の表情には惹かれる

修羅能として頼政が戦場を再現するわけだが、その在り方がジリジリと動き、抽象的に再現し、その欠けた部分を見所が埋めていく作業が求められる。
ただ一人の舞いなのに、多くの軍勢が見えるところから「唯一筋に老武者の」で独りになる姿が印象的。

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