大妖怪「ナヅケレッテル」
さぁ、少し難しい話をしよう。
と言っても爆発律を体系的に解明しようだとか、フェルマーの最終定理を1から考え直そうだとか、
そんな話ではない。
「鶏が先か卵が先か」……
Not.
「名前が先か現象が先か」
わけわからねぇ書き出しをしたので、わけわからねぇと思いますが心配なさらず。
俺が書くのはいつだって、手に取れるけどどこか掴めない、そんな左肩甲骨の内側の痒みのような話です。
想像してごらん、目を閉じて。
まだだけど。
「オタク」
このワードについて想像してみてくれ。
今度こそ目を閉じて。
…………
さて。
貴方のまぶたの裏には何が映ったのだろう。
真っ青のジーパンにチェックのシャツ、眼鏡姿のいわゆる往年の姿か、はたまた何処かのホテルで溢れんばかりの”推し”のグッズと共に誕生日を祝うキラキラ女子か、それとも、貴方自身か。
ここ最近、「オタク」のハードルは地に着いてしまうのではないかという程に下がった。10年前のそれはといえば、他の人に公言するなんてもってのほか、日常生活ではそれが発現しないよう振る舞い、家に帰っていそいそと一人で楽しむ。「オタク」はそんなアンダーグラウンドのような存在だった。けど今はといえばそうじゃなく、(本来はこの後に今の「オタク」の特徴を書き連ねるのが善い文章なのだが、今を生きる皆なら分かるはずなので割愛させてくれ、最早プロフィールに書いたり、それが魅力になったり的なアレだ)(この括弧書きの文字量で説明できたのでは?)(愚問だが。)(オタク特有の早口)(伏線回収キタコレ)
そう、何が言いたいかというと、
「オタクになるハードルが下がった」
ということで、近年の多様化ブームとコンテンツの増加に乗っかり「国民皆オタク」時代が到来しているということだ。
……
…………
いや、待ってくれ。
「オタク」って"なる"ものなのか?
気が付いたら"なっていて"、周りがそう"勝手に呼ぶ"ものなんじゃないか?
前述した往年の彼らは自分を「オタク」だと認識しているからあのチェックシャツスタイルになったわけではなく、何故か同じ趣味を持った人々が同じような服装をしていて、それを外野が勝手に「オタク」と呼び始めたのではないのか?
そう。
「オタクが先か、チェックシャツが先か」
なのだ。
そしてこれはチェックシャツが先だ。歴史がありありとそう説明しているし、「オタクが先」ならグッズに囲まれたキラキラ女子もチェックシャツを着ていなければいけないことになってしまう。
いけないことになってしまうことは無いな、言い過ぎたがそういうことだ。想像したら面白いけど。
さて、俺が言いたいことがそろそろ分かってきたはずです。
じゃあ次に。
「メンヘラが先か、大きすぎた愛が先か」
これは一筋縄ではいかない、というのが俺の見解で、大きすぎた愛の先に生まれたのがメンヘラだと思うけれど、「メンヘラ」という言葉があるからこそ「そういう愛の形」が生まれている可能性も大いにあると思うのだ。
僕には「メンヘラ学」を以前研究していた友人がいるので詳しくは彼に聞くのが吉なのだが、ここで皆に考えて欲しいことは、
『世の中、言葉が先行して生まれてるもの、結構あるくない?』
ってことです。
もし、「メンヘラ」という言葉がこの世に生まれ落ちていなかったら、それは各々の愛の形としか形容出来ない訳で、彼ら彼女らに見本となるような「メンヘラムーブ」も存在しない。
そう、今この世には誰がそう決めたか何人たりとも分かり得ない"見本のスタイル"があると思わないか?
例えそれが明示されていなくても、自分が「それ」であろうとするなら無意識のうちにすり寄っていってしまうような空中に浮かぶ見本が。
「オタク」「メンヘラ」「量産型女子」「無印男子」「丁寧な暮らし」「ミニマリスト」etc...
……ほらね?
どれにも教科書がある様な気がしてくるだろう。
しかし、俺はこれを悪い事だと、「真のオタクはこうあるべきだ!」だとか大声で言いたい訳では無い。
「チェックシャツが先」なように、同じ趣味を持つ人々が似た行動選択を取ることは往々にしてあるし、それこそ自分を魅せるようなインターネット文化が盛んな今なら、誰かに憧れ、それをトレースすることもあるだろう。
なんにせよ、ここ近年で暴走列車のように進む多様化の裏返しとして、「とりあえずカテゴライズ」「自分に名前を付けておきたい病」「未知、未命名への恐れ」という3種の神器を日本人は手に入れてしまった。
たしかに、多様化は「ポリコレ」などの言葉も出来たように世界中で勢いを増している。だけれど、日本は、日本人にとってはどうだろうか?
街にいる浮浪者や独特なファッションの人は依然見て見ぬふりしているし、LGBTQの問題だって世界がそうだから日本でも取り扱われているだけで、本当に心から考えているのは当事者だけではないのだろうか?
様々な意見があるだろうけれど、俺は日本人の国民性を「周りと異なりたくない」だと今でも信じて疑わない。
だからこそ、その独特なファッションにも、趣味嗜好にも、生き方にも、ライフスタイルにも何かと名前を付けて同士を募って「周りには自分と同じ名前の人がいる」という安心感を得ているのではないか?
うん、ここら辺でやめておこう。俺は別にその日本人の国民性について是非を問いたい訳ではなくて、「名前」、「言葉」は我々の生活にそれほどに溶け込んでいるし、ある種私たちが信仰する神のような存在でもあると思うのだ。何人たりともその揺れや魔力を恐れずに使えるのだし、単純明快な決定力を行使出来る。
それ程までに「言葉」は力を持ち、その「言葉」を使えば「名前」を生み出せてしまうのだ。
「名前が先か現象が先か」
どちらが先にもなり得るこの概念。
「現象」というものは、簡単には作り出せない。大人数の総意や社会の流れが何か新たなものを作り出すのだから。
「鬼滅の刃」は確かに面白い漫画だったし、国民的に流行した。
「鬼滅ブーム」は明らかに社会で起きた現象であった。
けれど、大人たちがその「鬼滅ブーム」のド真ん中を走る子供たちを「鬼滅キッズ」と呼び出した。
何かにつけては鬼滅ネタを繰り出す子供たちは確かに厄介なのかもしれないが、その「鬼滅キッズ」という名前によって、純粋に「鬼滅の刃」を愛する子供たちにもどこか幼稚で俗物のようなイメージを感じてしまう。感じてしまわないか?
「名前が先」は時に恐ろしいのだ。
それらしい模範を作り出せる裏で、そうでなくてはならないような疎外感や、そうであるべきといったレッテルを貼り付けてしまう。
「言葉」には力がある。
そして「言葉」は貴方一人でも生み出せてしまう。
だからこそ皆には、貴方には、
「言葉」の持つ力を理解して、脳死で振り回すことの無い人生を送ってほしいのです。
もし貴方が貴方自身に「できない」と思っているのなら、それは「できないが先」になってしまっているということです。だからと言って「できるが先」にしろ、とは言えない。
やってみるまで「無」なのだ。
「できる」「できない」の2つの結果、カテゴライズしかないと思わないで欲しい。
「できる方法を見つけた」「できないがやる必要もなかった」「できた方が将来に役立つ」「今はできなくてもいい」
結果なんて無限にあるし、結果なんて自分の「言葉」で生み出せる。
こんな薄っぺらなビジネス書にも書いてあるような事を書いたけれど、その薄っぺらいビジネス書を書けるような著者でも取り入れられる、万人が使える単純な方法なのです。
「オタク」と聞いてチェックシャツの彼らが想像出来るように、「自分は頑張れる」と名付けて本当に頑張れることだってあると思うから。
「オタク」はいつだって貴方の事を応援しています。
…………
「名前が先か現象が先か」
最後に、ある歌の歌詞を引用して終わりたいと思います。
「時には大げさな看板を背負わされて
時にはいわれない不名誉を着せられて
君のこれまでをいっぺんに語る事が出来る
名前なんてそうそうないよな
だからどんな風に呼ばれようと
好きにやるべきだと思うよ
君を語る名前が何であろうと
君の行動一つ程には雄弁じゃない」
ーー 名前/amazarashi
P.S.
「とりあえずカテゴライズ」ってなんか韻踏んでていいね、
終
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