誰ガ為に吐いているのか、俺達は
はい、いらっしゃいませ。
この頃、過剰に甘い物を食べることにハマっています。カルシウムはもう充分に足りているし、脳みそにも糖分が必要なお年頃ってわけ。オススメはこれ、アメリカ産のプレッツェル。お住まいの近くにあるドンキに300円くらいで売っていた気がするのでお試しあれ。
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「タイトルのスカし具合からの落差すご」
って思いました?
まだまだ落ちて往きます
皆さんは「すべらない話」持ってますか?何か咄嗟に間を埋められる会話をしなきゃいけなくなった時とか、初対面の集団で軽く飛ばして注目を集めたい時とか、大人数で1つのビリヤード台みたいなのを囲んでサイコロを振った大御所芸人に名前呼ばれた時とか、必要だよね。持ってます?
俺は持ってます。
「何も知らない友達とすたみな太郎に行くことになった話」
各々持っているイメージはあるかと思いますが、だいたいが同じ感想をもつあの食べ放題チェーン店に、行ったことのない関西出身の友人を連れていこうとする話です。続きが聞きたくなった人は俺と仲良くなって下さい。ご飯食べ行った時とかに話してあげるよ。なんのアレもなく人とご飯食べに行けるようになるのって何年後なんだろうな。もう元の日常は戻ってこないのでしょうか。まあいいや。
ここでその「すべらない話」について深く掘り下げたいと思います。実際「すべらない話」って、人に話す為に存在してますよね?自分が実際に体験したオモロい出来事に少々尾ひれをつけて面白可笑しい表現で人に伝える。事の全容を上手く伝えたいから、わかり易い表現で端的にすべらない話をする。
逆に、
日記とか、備忘録とか、講義のノートとか、どうせ自分しか見ないから、文法も適当だし自分だけが分かるようにたらたら書くよね。日記なんて、自分が心に感じたことをそのまま言語化してぶつけたり。
人が話したり書いたりする言葉には、
「自分のため」「誰かのため」
の2種類が存在するんじゃないか?
誰ガ為に吐いているのか、俺達は。
以下本論です。集中して聞くように。
人は何かを言葉にして話すなり書くなりして伝えたいとき、感じたことをノータイムノータッチでそのまんま伝えるのは多分無理です。自分が見聞きした事象をインプットして、自分の中でアレンジして、言葉にしてアウトプットする。これを一旦、我々人間が誰かにものを伝える時に通過するプロセスだと仮定してください。今回のnoteでは、このプロセスに「誰のため?」というベクトルをぶつけてみます。
実際にこのnoteだって、俺がとある事象をインプットして、アレンジして、言葉にして伝えようとしてる訳だからね。
まずはインプットから。あなたは誰のためにインプット(物事を見たり聞いたり体験したり)してますか?ちょっと考えてみて下さい。「、、、は?」だよな。そう、自分のための他ない。というか誰かのために物事を見聞きしたりするのはたぶん不可能。人に話すような経験をしたくてわざわざ何かをすることはあるだろうけど、それはアレンジされてアウトプットする時に「人のため」になる訳だから、結局自分で見聞きしたことは自分で感じるしかない。
では、「自分のため」のアウトプットと、「人のため」のアウトプットとは何か。ここが1番大切です。例えば、"目の前でサラリーマンが派手に転ぶのを見た"というインプットがあったとします。これを「自分のため」に言葉にするのなら、「あ、おっさんがコケてる。」とか、「可哀想、きっと恥ずかしい思いしてんだろーな。」とか。逆に「人のため」の言葉にするなら、「俺がいつも通りの道を歩いていると急に大きな音がして、振り返るとそこには地面に這いつくばるサラリーマンの姿があった。」とか、「こないだ歩いてたら、目の前でサラリーマンみたいな人が派手にコケてて可哀想だったわ。」とか。なんとなくイメージ掴めました?ただ、ここで忘れてはいけないのは、「自分のため」の言葉は口語チックで簡略、「人のため」の言葉は詳しく細かく固い。という訳では無いということです。メタっぽい事を言いますが、俺はこのnoteという媒体を自分が思った事や考えた事を後で自分で見返して愉悦するための文章録、作品だと捉えている節がかなり大きいです。俺は脳内のごちゃごちゃをこういう結構カッチリめな文章でまとめるのが好きなので、自分が好きな文章を自分で書いている、という感じ。どちらかと言えば「自分のため」に書いているのがこの言葉、このnoteです。とにかく皆に読んで欲しい、みんなに伝えたい、そういう「人のため」に書くとしたら、少なからずこの言葉のテイストも変わってくるはずです。もっと文章構成も考えるし、何回も読み直して読みやすくする。
……少し脱線してしまいました。
つまり、僕が言いたいことは「人のため」の言葉には少なからず配慮や創作が加えられている(べき)ということです。逆に言えば、配慮や創作が加えられていない言葉は人に向けられるべきではない、ということ。
その配慮や創作は、伝わり易くするためであったり、面白くするためのスパイスであったり、読み手の価値観への歩み寄りだったり。近年話題によく上がるアンチコメントとか誹謗中傷とかはまさにそういった配慮がない、言わば人に向けるべきではない「自分のため」の言葉にあたります。本当に死んで欲しい相手を目の前にした時、あなたは率直に「死ね」って言いますか?もっと相手を精神的に追い詰めるような言葉や事実を言い並べたり、もはや何も言わないかもしれない。配慮も創作もない「死ね」という言葉は実は「自分のため」の言葉で、「死ね」ということで自分の怒りを昇華しているんです。「お前は無能で使えない」と貶してくる上司も、自分は無能ではないと思い込みたくて「自分のため」にその言葉を発しているんです。一方そんな上司に対して発せられる「すみません」という言葉は、謝られた方が上司の気持ちも収まりやすいだろう、という配慮が込められた「人のため」の言葉です。
人間はこうやって、日々「自分のため」の言葉と「人のため」の言葉とを上手く使い分けて生きているんだと思います。その使い分けが出来ていない人のことを世はクレーマーと呼んだり、コミュ障と呼んだりしているのでしょう。
しかし、その人の職業などの周りの環境によって、どちらか一方を多用せざるを得なくなるという事がよく起こります。社会参加が少なく、日々自分と向き合っている人は「自分のため」の言葉ばかりでも大丈夫でしょうし、多くの人から見られる立場の人や、偶然そうなった人は「人のため」の言葉を使わざるを得なくなるでしょう。
そして、その「自分のため」の言葉ばかり使う人と「人のため」の言葉ばかり使う人との間で"無い物ねだり"的に齟齬が起きてしまいがちなのが今の世の中です。「自分のため」の言葉ばかり使う人に対して、自分勝手だ、子供っぽいと感じてしまうことはしょうがないし、「人のため」の言葉ばかり使う人に対して、偽善だ、綺麗事だと感じてしまう事も仕方がないと思います。
少しグレーでピンクな話題ですが、一つめちゃくちゃわかり易い例を出します。"性欲"という感情のインプットを「自分のため」にアウトプットする誰でもいいから取り敢えず抱ければいい系ヤリ〇ン男子の事を、自分勝手で低俗だと思うかもしれないし、逆に「人のため」にアウトプットするパートナーと愛し合うため、満足してもらうために抱いている感を出す系ヤリ〇ン男子の事は、どこか綺麗事だと思うかもしれない。そういう事です。
「自分のため」の言葉と、「人のため」の言葉。
優劣は一切ありません。
でも、「自分のため」の言葉を敢えて人に届ける必要は無いし、「人のため」の言葉を自分の中で消化する必要も無いです。受け取り手にあった言葉選びが大切です。
人に読んで、聞いてもらいたいなら「人のため」の言葉を使う必要があります。結局このnoteだって「自分のため」の文章録だと言いながら、万一の読んでくれる誰かに配慮して伏字をしたり、言い換えをしたりしています。そんな配慮を欠いている言葉や文章は人に向けられるべきではない、自己満日記として自分の机の中にしまっておいてください。もし、そもそも人を傷つけるのが目的で「自分のため」の言葉を世に発しているのならば、それはそれで人間としての正常な防衛本能だと思うので良いとは思いますが。
誰かの「自分のため」の言葉にあまり耳を貸さないように。
自分の「自分のため」の言葉と上手く付き合っていって下さい。
と僕は思います!!!!
おわり
このnote、「自分のため」とは言いつつ「人のため」とも言いつつ、書きながら考えてるからオチもなければ結論も導けない「自分のため」の文章なのかもしれない。結局ね。何言いたいのか分かんなくてもいいです、読みづらくてごめんよ!
おわり。
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