現代人の五感から指先まで

が短すぎやしないか?

(※多少批判的、賛否覚悟、以下理解上頼読)

目の前で人が転んだ時、体の向きを変えようともしないのに。
理不尽を目の前にして、その声帯は微塵も震えないのに。

なのに、指先だけは恐ろしい程けたたましく液晶を弾いていて、どうやらその指先は液晶の向こうを想像する力を失ってしまったようなのだ。

見聞きしたこと、体験したこと、感じたこと、その全てがまるで脊髄反射のように指先に伝わり、文字になり、ネットという海へと投下される。
脊髄反射だから、途中に中継点は存在しない。その中継点が真理だったとしても。その中継点が豊かさの根源だったとしても。

海中は身動きが取りにくいのだ。波があって、水圧もある。
空中を真っ直ぐに飛んでいくナイフは誰しも恐ろしく感じるが、海中を漂うそれからは、例え同じナイフであったとしても恐ろしさを感じない。

俺みたいに
その脊髄反射にストップをかけて中継点を発見出来るような強い意志と視力があるならばそれでいいだろう。
ただそうでないのなら、物理的にでもその指の動きを止めて、半強制的にでも立ち止まるしかないのではないか?

例えば、今俺は電車に乗っているのだが、目の前に立つ酔ってパキパキでフラフラの危ういおじさんを見て何を思うのか。
「ぶっ倒れそうになったら支える準備しとこう」
「もし事が起きたらとりあえずどこで降りるのか聞こう」
「出来ればガン無視したいけど、目の前にいられる内は俺がどうにかするしかない」
「死にかけのおっさんが死ぬ姿を見る方が何倍も鬱だ」
「でも、やっぱり迷惑、自制してほしい」
「自業自得の可能性あるか?」

もちろん、ウザいし迷惑だ
が、俺は01のショボいコンピューターではない。
「パキってるおっさん=ウザい」ではあるが、
「パキってるおっさん→ウザい」という単線的な情報処理しか出来ない訳がない、人間だから。
その過程には知性を持った人間だからこその様々な可能性があるはずだろう?

まさか「目の前にパキってるおっさんがいるなら席を譲ってやれよ」と思ったりしてないよな?
俺が言いたいのはそういうことだ
そもそも「電車で座っている」とは書いていないし、「席を譲ろうって書いてないってことはこいつ自身も立っているのか?でも目の前って…… あ、ドアの前なら立っている人が向かい合うか」
こういう中継点を自分の意思で通過して欲しい。


誰かが「現代の日本人は空気を読むのが異常に上手い」と言っていた。確かにそうかもしれない、と思った。
が、インターネットの世界ではどうだろうか。
言いたいことは直ぐに言う、少しでも癇に障ったら直ぐに批判、直ぐに口論大会。偏見、差別も上等の言いたい放題。
インターネット上には「読むべき空気」がさらさら存在しない、という可能性もあるが、その異常に上手いとかいう空気読みが全く行われていないではないか。どうしてなのだろう。

ここで取り違えて欲しくないのだが、俺は別にインターネット上で批判やレスバトルを行うことを悪だと言いたい訳ではない。
批判の対象が目の前にいるならば少しでも言葉を選んだり語気を調整するのに、なぜインターネット上では脊髄反射で、脳死で強い言葉を使ってしまうのか?

逃げるようで申し訳ないのだが、これは現代のネット世代が抱える一種の病、業なのかもしれない。インターネットへの付き合い方という観点で言ったらそれが一番健全で楽なのかもしれない。
極論、画面の向こうの会ったことのない、会う予定もない人間の機嫌などとる必要ないのだから。


でも、それでいいのか?

人間である内は人間らしくいたくないか?

人類史でも進歩の結晶であるインターネットに浸かると、まるで本能で生きる動物のように退化してしまうなんて、皮肉が過ぎるだろう?

俺が選んだ「静観」は、そんな現代の病より少しばかりは上等であると信じながら。

ただ、一つ忘れてはいけない。
現在インターネット上にあるコンテンツのほぼ全ては彼らが盛り上げているのだ。彼らがいなければインターネットの世界は冷たいままだ。

そう、それはインターネットと付き合っていく上では、必要十分条件的な現代の病なのだ。





ーーー


なぜ俺がこのただでさえ批判が含まれるような文章中に「俺みたいに」なんて要素を加えたのか。たんに「俺が凄い」と言いたい訳では無いことくらい分かってくれるだろう?
言葉に様々な可能性を持たせるのが書き手の使命であるし、言葉から想定外の可能性が産まれないように調整するのも同様に書き手の使命なのだ。
自分では上手く調整したつもり、是非いくつもの中継点を通過しながら読んでくれたなら幸いです。
俺の五感から指先までは約3日でした。






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