永久凍土、ドライフラワー、
「永久凍土」という言葉を小学生高学年の頃に初めて知った。けっして頭脳派とはいえないサッカー少年のタクちゃんが、冬の団地裏に残ってる氷のかたまりを見つけては「永久凍土」という言葉を連呼する時期があったのだ。あまりにも自慢気に、友達の顔色をちょいちょいと確認しながら連呼するものだから、前後のビジュアルもふくめて「永久凍土」という言葉が完全に記憶に焼き付いてしまった。
とはいえ「永久凍土」という初耳の意味内容には興奮を覚えた。
過去の、しかも小学生同士のやり取りなわけで大目に見てほしいが、文字通り「永久」に「凍土」であり続けるものが世界のどこかにあることを初めて知ってしまったのだ。そして安易にも、団地裏はずっと日陰で涼しいから、この氷のかたまりも「永久」になり得るかもしれない……というような空想すら抱いてしまったのである。
のちに知るウォルト・ディズニー氏の冷凍保存という都市伝説にも興奮したが、両者に共通しているのは「どんなに時間が経ってもそのままの姿であり続ける」ことが可能かもしれないということへの興奮だと思う。とりあえず凍り続けさえすれば、時間を超越するかもしれないわけだ。
ちなみに今Wikipediaで「永久凍土」を調べると、”2年間以上にわたり継続して温度0℃以下をとる地盤のこと”を「永久凍土」というらしい。
時間の蓄積には価値がある
ここから考えたいのは「時間」の話。少しずつ氷から離れていこうと思う。
時間。その蓄積。かつてぼくが「永久凍土」に時間の超越を見て興奮したような類似例は、自分に余裕さえあれば、生活の中でも簡単に発見できる。
たとえばぼくの住んでいる京都での類似例は枚挙にいとまがない。超有名どころでは、和菓子の「とらや」は京都で創業してから約480年だという。室町時代後期から歴史を、時間を、積み重ねている。あるいは「祇園祭」はもっと長い。やむを得ず中断した時期があったものの、多少内容に変化があったものの、時は9世紀から続く夏の風物詩。余裕で1000年以上もの歴史を歩んできている。
他方、ぼくにとってはもっと身近な類似例。働き先の老人ホームでも、時間の蓄積は尊ばれたり畏怖されたりして一目置かれている。
80代じゃ「まだ若い」と一蹴されてしまうような社会。昭和ひと桁台生まれ(現90歳前後)、かつ元気な人が幅を利かせがちな現場において、「大正」生まれや今「10○」歳という事実は、驚くほどに彼ら彼女らを黙らせる。その最年長者が自立して食べたり歩いたりできるようならなおさらのこと、それを目の当たりにした人たちは急に目の色を変えるのだ。どうやら、自分より長い時間を生きてきたという現前(厳然)たる事実が、彼ら彼女らにとってはかなりの衝撃を与えるようである。
年代物のワインも理屈は同じ
以上を鑑みると、氷も町も人間も、長い時間の蓄積にこそ価値が宿るような気がするものだ。かくいうぼくもアンティークや熟女が好きなので、築年数というか、畜年数が、自分にとってある種の興奮材料ではあった。
わかりやすい別事例ではワインがそうだろう。たいていは古ければ古いほどに価値が上がるもの。ぼくのような味音痴にはわからなくても、ちゃんとした舌を持っていればおそらく、より年代物の、熟成されたワインを美味しいと感じ、その価値を認めるのだろう。
さらに別事例では、小料理屋やラーメン屋にありがちな「秘伝のタレ」なんかも同じ括りだろう。創業時から今に至るまで、継ぎ足し、継ぎ足しで、ずっと変わらぬ味を守っているとなると、さすがに応援したくなってしまうのが人情だ。
要は、今のところのまとめとして、やはり「時間の蓄積」には価値があるように思ってしまう。
「花」のポテンシャル
たしかにワインや秘伝のタレには「時間の蓄積」が必須かもしれない。どちらも「熟成」や「発酵」を経て、おそらく味が深まる。とはいえ「経過時間」が目的ではなく、さらなる味や風味を求めると、どうしても「時間」が必要になる、それだけの話かもしれない。ただ、消費する側から見たらやはり、想像以上に「時間」がかかっているという事実は尊い。
では、氷とも町とも人間とも、ワインとも秘伝のタレとも離れた上で、「花」に注目してみるのはどうだろう。なぜ「花」なのかというと、単にぼくの関心領域であるという理由に過ぎないが、色々と面白い考察は生まれそうである。なぜならどんな場面でも、どんな冠婚葬祭でも、とりあえず「花」がある。日本というか人類にとって欠かせないシンボルだとぼくは思っている。
いずれにしても、まず大前提として「花」というのは「旬」が命。もっと言えば、そこでしか咲かないという「場所性」も同じくらい大事である。
ただ今さら言うまでもなく、ハウス栽培や人工授粉等々、ある意味での「不自然」が横行することで、現代のフラワービジネスが成り立っているとは思う。まぁぼくとしては複雑な気持ちだ。(というのも、子供たちが花や虫などを育てたり飼ったりすることで、自然や生き物との接触機会を増やし、さらに感受性を育むという点では大賛同。だが「旬」や「野性」などの本質がわからなくなるようでは本末転倒だと思っている。)
そこで今流行っている、インテリアとしてオシャレな「ドライフラワー」。こやつを「時間の蓄積」と照らして考えてみたい。
たとえば植物カテゴリと称すれば、うちの家には椿の切り花を飾っていたり名前もよくわからない多肉植物を寄せ植えしたりしている。プラス一応庭先にはサフランやパクチーなども育ててはいる。
ただ植物である以上、生き物である以上、日や風のあたり具合、さらには水やりなど、最低限の生育環境を維持しないといずれ死んでしまうという危機感が常にある。だからそんなこと関係なしに部屋を彩るだろう「ドライフラワー」には、少なからぬ憧れを抱いてはいる。
でも中途半端に植物に手を出した以上、生き物を育てるという醍醐味を知ってしまった以上、簡単には「ドライフラワー」に手が出せないでいる。イマココである。
そこで思う。
仮に「ドライフラワー」が年代物として取り扱われる日がくれば、ぼくは大事に乾かし続けるだろう。
静かに、(環境を整えながら)時を待てば、価値が上がる。
そういう未来がきてほしい。だって不自由なく暮らせるお金が、ぼくだってほしいのだ。
「気候変動」や「地球温暖化」の影響で「永久凍土」すら「永久」ではなくなる今だから、「常識」だって「常識」ではなくなっていく。
よって(まるで永遠かと思われた)ぼくの困窮生活もいつか必ず溶けるはず。そこに花でも咲いてくれ。乾かしたるから。
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