顔面ストッキングの拒否権
ストッキングを顔面からかぶって、男同士で引っ張り合う。
世の中にはこんな変わった仕事があるようだ。
明日うちの職場では敬老会を予定している。まだ新入りの僕にとってこの職場での敬老会は初めてだ。
とはいってもどの施設でもだいたいやることは同じだろうから、少し特別なレクリエーションや少し豪華な食事を楽しんでもらい、最後みなさんに感謝のメッセージや記念品を贈って会を締めくくるんだろうと思っていた。コロナじゃなければカレンダー通りちゃんと敬老の日に開催されただろうし、きっとたくさんのご家族が参加しただろう。
新入りにくわえて派遣でもある僕は、少し前まで敬老会の中身を全然知らなかった。誰が企画しているのかも全然わからなかった。会の当日に自分が出勤かどうかさえ意識しないでいた。まぁたとえ出勤でも、きっと見守りやサポート役だろうし、割り当てられた役割を目元の笑顔強めで丁寧に対応するだけである。
ところが今月に入って事態は急変した。
ようやくできたらしい当日のタイムスケジュールを見ると、レクリエーションの枠では、ラジオ体操、風船バレー、箱の中身は何だろな?……それらと並んで顔面ストッキングという項があった。そして担当者欄には〇〇、××、△△に続いて、高橋とはっきり書かれていたのである。おまけに「男性陣には体を張ってもらいます!!」というコメントまで添えられていた。
仕事はどこまで拒否していいものか。顔面ストッキングには考えさせられる。
まず僕個人のスタンスとして、やりたくなくても仕事である以上はイヤなことが付きまとって当然。古い価値観かもしれないけれど、時には我慢も必要だというスタンスである。
自営なら別。しかし雇われている以上は理不尽なことも付きまとう。だから多少の理不尽は飲み込んで受け入れるべきである。それが本当にイヤなら辞めればいいだけだ。というか拒否ばかりしていたら派遣の僕はあっちから簡単に切られてしまう。
その点(週4しか介護現場で働きたくないという理由から自分で好き好んで派遣という道を選んでいるわけだが)僕が正社員だったらスタンスは変わっていたと思う。法律や契約を盾に、もっと「NO」を表明していただろう。
とはいえ正社員には正社員になりになかなか「NO」とは言いにくい理由があるとも思っている。おそらく例外ないだろうが、正社員になるからには、ある程度その職場で腰を据えたいということ。人によってそれぞれ動機は全然ちがうと思う。キャリアアップを目指す人、とにかくお金を稼ぎたい人、社会的信用や安定のために「正社員」ラベルが欲しい人。あるいは年齢的にいま失職したら次がないという悲観から、その職場での正社員にしがみついている人もいると思う。
いずれにしても正社員にとって「すぐ辞める」という選択肢はないようだ。ある程度の期間(あるいは最後まで)そこで腰を据えて働く――という約束を個人と会社が結ぶわけなので、職場での居心地や人間関係をおざなりにはできないのである。
想像すると恐ろしい。
本当にイヤな業務を与えられてしまった際、絶対に断りたいとは思う。
でももし断ったら、上司からの評価が下がるかもしれない……。また給料に影響するかもしれない……。ボーナスが下がるのだけは避けたい……。
あるいは。自分が「NO」と言ったら、ほかの同僚にしわ寄せがいくだろうか……。同僚たちに陰口を言われるかもしれない……。
そうなると一応会社に身を捧げる正社員として、ここで「NO」を言うよりも、ストッキングを数秒かぶったほうがリスクとしては小さくて済む……。そのような判断を、正社員はしかねないのである。
繰り返すが、僕は派遣である。
顔面ストッキングがやりたくない仕事であるのは本心だ。でも理不尽でも多少は我慢するのが僕のスタンスである。恥なんか一瞬で終わるわけで、我慢すれば何とでもなる。これで死ぬわけでもあるまい。
だが顔面ストッキングは、別の意味で終わっているアイディアなので全力で阻止したいと思う。
というのも、今年の年始に僕が加入してからずっとコロナ禍だが、うちの老人ホームではコロナ対策を徹底していた。それは希望者職員がワクチンを2回打ち終わった今なおPCR検査を毎週していることからもわかるだろう。
そんな施設が企画者のノリというか思いつきで、顔面ストッキングを企画して、なぜか案として通ってしまった。ここが最高に気持ちが悪い。
ものの数秒、ストッキングをかぶる人間はマスクを取っている間しゃべらなければ大丈夫だという発想だろうが、感染対策を徹底している職場が大勢の高齢者の前でやる企画ではないだろう。万が一そこが感染源となった場合、今までの苦労は何だったのだろうか。ばかばかしいにもほどがある。
また顔面ストッキングの何が楽しいというのか。
一部の元気な高齢者はきっと笑うだろう。それはわかる。知っている人間のブサイクな顔というのは面白いものだ。
とはいえ一部の高齢者を笑わせればそれでいいのだろうか。その日は敬老会なわけでしょう?コンセプトもよくわからないまま、ただ間に合わせで、雑な笑いをもってきたことに憤りを感じる。また家族が見に来ないというのも雑なプランを正当化しているようで気分が悪い。
ほかにも挙げればキリがないが、「男性陣には体を張ってもらいます!!」などというジェンダー感も福祉業界としてどうかと思うし、新人にだけストッキングをかぶらせるというのはフェアネスからも反している。
つまり「顔面ストッキング」は、何もかもがズレていると僕は思ったのである。
然るべき人にその「NO」を伝えたら、顔面ストッキングの項が「玉入れ」に変更していた。
明日は高齢者の方々が玉入れするのを全力でサポートしたいと思う。