書くことで救われることがある
ここ三日ほど、同じ夢を見て目覚めた。それは私の故郷の夢で、海や山、家族や旧友が登場しては語り合い、対立も摩擦もないユートピア的な時空間と関係性がそこにあった。私はその夢の中で、ある時は故郷の歴史や面白さについて熱心に具体的に友人に語り、ある時は故郷の海水の飛沫を浴び、釣り人に声をかけ、ある時は歴史ある電鉄の車両に乗ってどこかに向かっている。私は本当に、故郷に育てられたのだと思う。今の私を語る際に「その街で育った」ということを抜きには自分自身を語れないほど、16歳まで育ったその街は私の内側でとても大きな力を持っている。
今後どれほど遠く異邦の地に行こうとも、どれほどたくさんの経験をして過去の切実な体験を思い出せなくなったとしても、きっと私の故郷に対する思いは変わらないと思う。しかし同時に、そのような夢から目覚めた時、「今日という一日」に対する期待が失せ、現実が虚しく見えてくる。摩擦や対立がない関係性など私の周りには存在せず、あらゆる駆け引き、損得で関係性が規定されているかのように見える。損得抜きに、何もこちらが差し出せずとも、相談に乗ってくれる仲間がいる、それはとても貴重なことだ。今、そういう仲間を何人も挙げることができるのは掛け替えがないことだとも思う。
しかしやはり、私の根源的な無意識は故郷に戻って仲間と一緒に過ごしたい、という気持ちがあるのだと思う。意識の上では、さまざまなことに挑戦したい、世界中のあらゆるところに行ってみたい、ということがあるが、潜在意識には「動きたくない」という気持ちがある。
これはコーチングでいうところのコンフォート・ゾーンと呼ばれる概念に近いと思う。当人にとって最も心地よい場所から動きたくないのは生物の生存活動として自然である。しかし一方で、そのコンフォート・ゾーンが変質・拡張してしまった場合、もはや今までの心地良さは失せ、今までは達すること自体辛かった時空間こそが心地よいものへと変わる。
私自身のこの目覚めた時の虚しさはどこから来るものなのだろうか。そしてそれは、一体私に何を教えてくれているのだろうか。
もし私が今の私のキャリアや人間関係を全てペンディングし、故郷に帰って何かしらの経済活動を行うとして、それは私のコンフォート・ゾーンの中での生き方を実現するのだろうか。私の"夢"を実現できるのだろうか。間違いなくNOだろう。私はきっと故郷のことをとても嫌いになるだろうし、故郷に作った仲間の数だけ、たくさんの敵を作ることにもなるだろう。
なぜならば、そこにある矛盾や問題に対して働きかけるという生き方以外に、私は生きる方法を知らないし、それはつまり、私の「唯一の」故郷である精神的な拠り所としての”故郷”を失うことにもなる可能性が出てくる。「預言者は郷に入れられず」にならないためには、故郷で目立つような活動をそもそもしてはいけない、ひいては故郷の外であっても、そうしてはいけない、という私の無意識が働いているのではないか。人は帰ってくる場所があるからこそ、異邦の地で闘えるものだと私は思っている。"闘う"というのは大袈裟だという人もいるが、私たちは経済活動をしているかしていないかに関わらずこの現実と闘っている。闘っていない人はいない。どこにでも、常に既に、対立は存在し、その対立に敗れれば社会的なもの如何に関わらず、存在意義を失い(ビジネスパーソン的にいえばシンプルに信用を失い)またはひたすら物理的精神的に困窮することになる。
私は私自身の精神的な拠り所を、具体的な故郷(ひいてはそこに紐付く地縁血縁的な関係性全般)においている限り、本当の意味で自由な活動をすることはできないのではないか。「故郷のことが好きだから、地方創生とかなんとかかんとかで、地域を盛り上げたい」的な直線的ビジョンは(おそらく私の場合に限らず)実現しない。そうであれば地縁血縁的なもの以外に、つまり思想縁的なものに自分の故郷を作るしかないのではないか。"故郷"を作らない、という選択肢がスポイルされているではないかと言われるかもしれないが、”故郷”とはあくまでもすべての人間が潜在的に依拠している遺伝的な偏り(家族愛とか、友情愛情とか、死ぬのが怖いとか、社会的なものでいうと"金を稼がないといけない"とか)として考えると、常に既にすべての人は何かしらの自分の精神的な拠り所(前提の、前提の、前提の・・・遡りきれない最後の前提)を持っている。私にとって具体的な、私の育った街での体験とは、そのくらい確かな、"明日生きていくためには金を稼がないといけない"くらい切実な存在なのだ。(ある本屋が潰れたと聞いただけで胸が苦しくなるくらいだから、きっとそうだ)
ではどこに、私は私の拠り所を持ってくる、ないし創る、ことができるのだろうか。宗教という人もいれば、恋愛や家族という人もいれば、会社(ないし仕事などの人間関係)という人もいるだろう。この答えは今は出ていないのだが、きっと郡司氏(郡司塾)をはじめとする仲間の存在は私にとって駆け引きの対象ではない、貴重な存在になっている。そして上記の問いは、私以外にも共通のとても切実な問いではないだろうか。そしてそれを無自覚に決めているということが、どれほど危険なことなのかということは、人は歳をとってから知ることになるのだと思う。