慣性なんてぶっとばせ③
「本当に飛び抜けたかったら、得意で好きなことを突き詰めるんです。それ以外に投資しても無駄です。苦手を克服して平均的能力を獲得してもトップにはなれませんから」
そう言っていたのは、誰でも知っている米系グローバル企業の大ボスでした。それを聴いたとき、目が覚める思いがしたものです。そのときの僕ときたら、必死で苦手をどうにかしようとしていたんですから。
人はついつい「ダメなところ」に注目してそれを改善しようとしてしまいます。
おそらく、受験勉強ではそれでうまくいったのだと思います。すでに満点に近い得意教科よりも、苦手教科に集中的に時間を割いたほうが点数は上がるからです。でも、こと受験勉強を離れると、「全教科点数がそこそこ高い」のタイプではなく、「とびぬけた何か」を持った人のほうが重宝されます。
社会人基礎力の罠
会社もついつい、オールラウンダーを育成しようとしてしまいます。
とびぬけた才能を磨く暇があったら、足りていない部分にフォーカスして、そこを伸ばせと指導します。そして、全社員だいたい同じなスキルセットを身につけさせようとします。お小言の定番フレーズですよね、「社会人だったら○○くらいできなきゃ」というのは。
多くの人は、「社会人基礎力」みたいなものの存在は信じていると思います。それは新人研修で叩き込まれたものでもありますし。
でも振りかえってみて、新人研修って結構常識外れのことをやるんですよね。悪い意味で。
これは個人的な経験ですが、マナー講師が「女性は胸の開いた服を着てはいけません」と指導していたのまではまあまあわかるんですが、「まあ! この服、胸が見えるでしょ! ほら! ほら!」って叫びながら同期女子の胸ぐらを無理矢理引っ張ってたのは「こいつやべえな」という感想しかなかったです。
マナー講師がこんなにヤバくて生きてけるんだから、社会人なんか誰でも務まるな、なんてことを思ったりして。
さもありなん。『仕事に関する9つの嘘』では、仕事のための「必要最低限の能力」なんてものはないと提起します。いわく、メッシはほとんど左足しか使わない。フランク・シナトラは楽譜がまったく読めなかった。それでいいのです。そんな条件は、彼らの素晴らしい功績に何の関係もないからです。
けれども、人々は(わざわざ、ご丁寧にも)困難克服への道をめざします。面白いことに、本書では、困難克服への道は苦痛を伴うからこそ快感なのだと述べられます。人間は、つらいことをしていると満たされるようです。さながら、何度もヒモ男と付き合ってきた女性のようですね。
なので、本当に能力的に尖ろうと思うと、この快楽的な苦痛から卒業しなければなりません。そして、不愉快なる「前進」へと、心地よい「現状維持」を捨てて歩んでいかねばなりません。
失敗なんかに意味はない
苦手の克服と同様に、失敗をありがたがる風潮というものもあります。会社によっては、失敗の数をKPIに入れるようなところもあると聞きます。営業なら、顧客の「NO」をたくさんもらおう! みたいな。
これはある種、まあ、顧客の拒絶を恐れないようになるためにはいい訓練だと思います。とはいえ、本書ではやはり、失敗それそのものに意味はないと言い切ります。
スポーツでも勉強でも、何かを身につけたときというのは、うまくいったときであるということを、誰もが薄々感づいていると思います。
テニスであれば、正しいフォームでボールを打てたとき、高校数学であれば、正しい方法で積分ができて答えが一致したときなどです。失敗というのは、成功するまでの過程にすぎません。
よく考えてもみてください。ドラえもんののび太くんみたいな、バツ印満載の0点のテストを百回、一万回繰り返したところで何も学ぶことはできません。何かを身につけたときは、のび太くんのテストでマルが増えてくるようなときです。
たくさん失敗をすれば、成功体験を得る確率も上がるでしょう。成功体験が増えれば、上達もしていくでしょう。このロジックがあって始めて、「たくさん失敗しよう」という言葉が意味を持ちます。
つまるところ、無闇に転びまくって悦に入ってても意味がないのです。転ばない方法を学ぶために今は転ぶ。
格闘技でも、技を食らって学ぶところはあります。目的は技を食らうことそのものではなく、そこから学ぶことです。明日は食らわせるために今日食らうのです。技を食らうのが楽しいというヤバい人がいたとしても、別にその人は伸びません。
前項に引き続き、これは社会に蔓延るドマゾの勧めの否定になります。
尖った人間になろう/欠けた人間であろう
本書では、人はとにかく尖ることを推奨されます。できないことはいくらあってもいい。その分、できることはめっちゃ尖れというわけです。オールラウンダーなんか目指すなと。
そんなことで仕事回るのか、という疑問があるかもしれません。楽しいことだけしていて、得意なことだけしていて良いのか、そういう罪悪感のある人もいるでしょう。
だからといって、苦しいことや痛いことをしていても、免責されません。免責されないなら、開き直って、得意なことに邁進したほうがマシだと思います。そのほうがチームに貢献できるでしょうし。
これで大丈夫というカラクリは、僕らがチームで働くということにあります。仕事はチームで相互補完的にやるからよいのだということだそうです。誰かの得意と得意を合わせて、全員で、オールラウンドなチームをつくるんです。
個人は尖れ、チームはオールラウンドでいけ、と。
全員が苦手なことをして出来上がったオールラウンドチームより、全員が得意なことをして出来上がったオールラウンドチームのほうが圧倒的に強いですよね。
「社会人の基礎能力は○○!」みたいなお小言から解放されて、みんなが楽しく得意なことをしておまけに成果も出す、そんなチームをつくっていくのが標準になってほしいものです。
(慣性なんてぶっとばせ④に続く)