意外と3人しかいない、ゴールデングラブ賞にまつわる記録
学生時代のポジションと、
プロに入った後のポジションが異なるのは、
それほど驚くことでは無い。
アマチュア時代に抜きんでた守備力も、
プロに入れば、たちまち苦戦を強いられる。
いわゆる「プロの打球」についていけなくなるのだ。
それを考えると、
高卒新人野手で唯一、一年目からゴールデングラブ賞を獲得した立浪は、
なんとも恐ろしい存在だ。
その立浪でさえ、
コンバートを経験している。
晩年に外野を守っていた姿は、記憶に新しい。
守備力というのは、
ある程度潜在的な能力があるわけだが、
ゴールデングラブ賞を受賞するにあたっては、
一年間レギュラーで座り続ける必要がある。
内野と外野のコンバートは、
話としてはよくある話だ。
現役でいうと、ヤクルトの内川聖一などがあげられる。
そんな中、
内野でも外野でもゴールデングラブ賞を獲得した、
レジェンドが存在する。
しかも、これまでの野球史でたったの3人しかいないというのだから、
それだけ内外野のコンバートというのは、
人口の割に難しいことがわかる。
その3人を紹介したい。
高田 繁
ジャイアンツ一筋の、名選手。
浪商時代には、外野と投手で目立ったが、
明治大に進学後はセンターとして活躍。
六大学の、右打者としての最高安打数記録を所持(127安打)。
※左打者では高山俊の131安打が最高。
巨人に入団すると、
慣れ親しんだセンターではなく、主にレフトで躍動。
入団5年目の1972年に初のダイヤモンドグラブ賞を受賞すると、
1975年まで4年連続で受賞。
『壁際の魔術師』との異名も付くほど、決してマネできない打球感を培った。
驚くのは、
翌1976年から三塁手にコンバートされるわけだが、
その年に自身最高となる打率.304を記録するなど、
コンバートの影響を全く感じさせなかった。
三塁手としても、コンバートの76年から77年まで二年連続でダイヤモンドグラブ賞を受賞。
外野手→内野手の順で受賞したのも高田が初めてだった。
西村 徳文
こちらもロッテ一筋。
俊足とスイッチヒッターで名をはせた、レジェンドだ。
福島高(宮崎県)時代から二塁手として活躍し、
やはりプロでも二塁手として入団。
ちなみに、スイッチヒッターとなったのは、
プロ入り以降の話である。
代走要因を乗り越え、
3年目の1984年に、初めて規定打席を到達。
1985年に二塁手としてゴールデングラブ賞を初めて受賞した。
意外にも、二塁手としての受賞はこの一回で、
というのも、86年からは辻初彦の台頭があり、適わなかったのだ。
89年に経験した怪我により、
二塁手のレギュラー争いが激化。
結果的に中堅手として復帰することになったのだが、
90年にキャリアハイとなる打率.338を記録し、首位打者を獲得。
外野手としてゴールデングラブ賞も受賞し、
高田以来となる、二人目の内外野の両方受賞となった。
稲葉 篤紀
昨年までは侍ジャパンを指揮し、
現役時代はヤクルト・日本ハムで活躍した、天才打者だ。
意外と知らなかったのは、
のちにゴールデングラブ賞を受賞する一塁手と外野手は、
法政大時代の彼のレギュラーポジションそのものだった、ということだ。
ヤクルトには外野手で入団するものの、
自身初出場は一塁手だった。
ちなみに、初打席初本塁打という華々しいデビューを飾っている。
それでも、
一塁手としての出場は年数試合にとどまり、
01年~04年においては、外野手のみの出場にとどまっている。
起点となったのは、
日本ハムファイターズへ移籍した、05年以降である。
06年~09年で、外野手として4年連続でゴールデングラブ賞を受賞している。
新庄、森本とともに鉄壁の外野布陣を引いていたが、
10年以降は陽岱鋼の台頭もあり、
徐々に一塁手としての起用が増加。
12年には、
外野手としての出場は0に終わったが、
一塁手として初めてゴールデングラブ賞を受賞。
史上三人目となる、内外野両方での受賞となった。
直近の受賞者を見ても、
この記録を達成しそうな選手は、どうも居なさそうである。
唯一あげられるとすれば、
一塁手として受賞経験のある中村晃(ソフトバンク)が、
外野手に戻ることがあれば、可能性はあるかもしれない。
それだけあって、
この記録はチーム事情における偶然もありつつ、
共通するのは、
選手自身が長年にわたってレギュラーとして活躍するような、
レジェンド級選手だからこそ達成できた、ということだ。
単純に、守備がうまく、内外野でもまもれるユーティリティ、という理由ではないことが分かった。
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