読まれる小説を書くためにも助詞ひとつの選択にさえ気を配る
通っている小説教室の後期の授業が先月から始まっている。ゼミ形式で特定の先生のもとにつき、それぞれの指導方式で文章を磨く。
今のクラスでは各々提出した作品を受講生も事前に読み込み、授業の際に皆で講評しあう。完成後は文学賞への応募を考える人もいる。自分の作品を直しつつ、ほかの受講生の作品も読み、感想を持たなければならない。ので、割く時間は多いが、文章を読む力がつくと好評な面がある。
第一回の授業で、まさに私の作品が講評の対象となった。すでにエンドマークがついていて、原稿用紙一〇〇枚はある。その梗概と、冒頭三〇枚を提出した。
噂には先生よりも受講生からの評価が辛く、校閲並みの添削が入るなどと聞いていたので、戦々恐々だ。が、実際には納得のいく感想も多く、評価としてはまあまあ好感触であったと考える。ただやはり、気になる指摘はいくつかあった。
それはつまり、端的に言えば「内容が面白いかどうかはともかく、あなたの日本語ちょっと怪しいよ」だ。主語と述語のねじれ、助詞の使い方、などである。言葉の順番、選択によってわかりにくい文章を書けば、それだけ読者の読むリズムをとめ、ノイズとなってしまう。
「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」
と、言ったのは、作家・山崎ナオコーラさんだが、まさに目指したい表現はそこだ。そのためには、なるべく難解な言葉遣いはせず、日常に散りばめられた物言いで、いかに他とちがう視点で描写できるのかを考える。助詞ひとつのもつ意味やはたらきを考えるまでには至っていなかった。
こうしたものは一体どんな書籍を通じて学び直せばいいのだろうか。どうやら近年、外国人向けの日本語の参考書が、とても充実しているらしい。日本語に不慣れな人のために、とてもやさしく解説されている。さっそくKindleで一冊購入した。
「が」という助詞ひとつに「事実」や「能力」「所有」「経験」「感覚」「願望」「状態」を表す役割が込められていること。日常的に日本語を操りながら生活していても、意識などしたことがない。言葉の学び直しに、確かに一役買いそうだ。
「純文学目指しているなら、そういうところから意識した方がいいよ」
ということだ。描写の美しさ、ストーリーの面白さもこだわりつつ、選択する言葉の美しさ、正しさも追求しなければ。芸の深奥を極めたい。