現代の作家は将来文学館になにが資料展示されるのか
友人と地元にある文学館の展示を見てきた。
文学館、行ったことがあるだろうか。美術館なら絵画や彫刻、博物館なら標本や化石などが並ぶのがわかるはず。文学館はつまり、文芸のそれだ。
日本で著名な、そして地元にゆかりのある作家にちなんだ資料が展示されている。わかりやすいところでいうと、原稿だ。作家の自筆、そこに校正などの指示が書き込まれた、いわゆる生原稿である。
有名な著作、私も読んだことのある作品の原稿をしげしげと眺めて歩いた。作家によって読みやすい字を書く人もいれば、本人にしかわからないのではと思うほど、癖のある文字を並べる人もいる。最初に読む人間は、読むのに苦労したにちがいない。
「逆に今の作家って、将来ここに並べられるものってなんなのかね」
ふとそんな話題になった。現在も手書きにこだわる作家の先生は存在するはずだけれど、今や執筆は「パソコンによる入力」が主流だ。新人賞の公募の中には、手書き原稿は認めない賞もあると聞く。しかし、こうした資料館の展示に「ワードで打ち込んだ原稿」が並んでいたとして、みんな喜ぶのだろうか。
喜ぶ喜ばないで展示は決めていないだろうが、やはり少しは「貴重さ」「物珍しさ」があった方がいい気がしてしまう。と、常設展をしばらく眺めていたときだ。ある有名作家が愛用していた「水泳帽子」がガラスの向こうに現れた。
「こういうのもありなのか」
作家の生活が見えるものも資料としてあり得る。執筆作業中、コーヒーを淹れていたマグカップなどでもいいのかもしれない。あるいは、作業用BGMを流すためのイヤホンなど。
「プレイリストが印刷されて貼ってあったりして」
などと笑いながら、空調の効いた館内からだらだらと出ていく。茹だるような熱から逃れるための鑑賞だったが、外はまだ危険な暑さを纏っていた。すぐさま隣の美術館へと逃げ込んだ。
文学館の展示資料にはほかにも、初版本や、作家が参加していた同人誌などもあった。パソコン文字でも、プロットや箱書きなど、原稿になる前の段階のものなら、資料として成り立つのかもしれない。
今はなんでもデジタル化で、アナログのものが少ない。この時代に暮らした人間がどんな文化に触れて、どういう思想が生まれたのか、どういう生活を送っていたのか。そういう資料を将来、歴史の観点で見つめたいとき、そのデータを再生するものが未来に残っていなかったら。現代を示す資料がまるっきり残らないのでは。そう言う人もいるらしい。
未来の歴史学者を惑わすためにも、さも私が見てきたものを、現代の世の中すべてのように、紙の本として残すことができれば。令和を生きた作家として、いつかあの文学館に、自著と愛用のイヤホンが展示されたら。生暖かい風が吹くとき、空からそれを見た私が、薄ら笑いを浮かべたときだと言っておく。