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掌編小説|今夜がヤマだが?

 ママ、あのね。今まで内緒にしていたけれど、ほんとは僕ね、パパに会ったことがあるんだよ。そう、パパ。僕が生まれたのと同じくらいに、死んじゃったパパに。
 
 パパが病院に来た頃、外は凄い雨だったよね。時々びゅうと風が吹いて、窓を揺らしていたけれど、救命救急センターは慌ただしく人が動き回っていて、外のことなんて誰も気にしていなかった。パパが何人ものお医者さんに囲まれて横たわる部屋の扉のすぐ向こうで、棟梁が手を組んで力強く祈っていたよ。
「山田さん、しっかり! 奥さんと赤ちゃん、置いてったらダメだからね!」
 一人のお医者さんが、パパに向かってそう叫んでいたんだ。前に仕事で怪我をしたときに、処置してくれたんだって。
 そんな様子を、僕らは天井から二人で並んで見下ろしていたんだ。
 大きなお腹を抱えたママが、ぱたぱたと、真っ青な顔をしてやってきた。ママに気づいた棟梁が立ち上がって、
「子どもが、小学生くらいの子どもらが、現場に入ってきちゃっていてよう。資材が子どもに向かって落ちて、それをヒロキの奴、庇って……」
 申し訳ない! と、棟梁はママに向かって深々と頭を下げた。棟梁を見て、ママは込み上げてきたものを押し戻すように、眉間に力を入れて、唇を噛んでいたね。
「ご家族の方ですか」
 さっき、パパに声をかけていたお医者さんが、扉の向こうからやってきて、ママにそう聞いた。ママは、妻です、と答えると、ヒロキはと、パパのことを聞き返す。
「依然、意識が戻りません。かなり危険な状態ですが、全力を尽くしたいと思います」
 お医者さんはそう言って、またパパのもとへ戻っていった。その姿が扉の向こうに消えると、ママはその場でへなへなと座り込んだ。
「俺、やっぱりこのまま死んじゃうのかな」
 パパは困ったような、苦しいような顔をして、隣でそう呟いた。死ぬなんて思っていなかったから、何にも準備してこなかった、と。
「たとえば?」
 と、聞いてみた。
「この間のボーナス、宝くじ買うためにちょっと使っちゃったんだよね。ユミコに内緒にしてたから、せめて隠し場所、教えておけばよかった」
「他には?」
「ユミコが行きたいって言っていた国にも、連れていってあげられなかった。好きなバンドのライブも、いっしょに行けなかったな」
 もっとずっといられると思ってたから、とパパ。赤ん坊の顔、見たかった、とぽつり。
「何にも残せなかった。父親らしいこと、何にもできなかったよ。ダメだよな」
 そう言ってパパは、呆然とするママのことを見つめていた。そのときのパパは、この世に残してしまうものに対する「ミレン」というものがたくさんあったみたい。
「ユミコさん!」
 ママの名を呼ぶ声に、ママも、パパも、僕も同時に顔を上げた。パパの親友の、ケイくんだ。その奥にはパパのお母さん、クニコばあちゃんがいた。それから、パパの会社の同僚の人たち。そして、パパに助けてもらった男の子が、顔に擦り傷をつけてやってきたんだ。
「あの子……無事でよかった」
 パパはそう言って、胸を撫で下ろす。男の子に気がついたママは、そっとその子の頬を撫でた。瞬間、男の子の目は潤み、顔が歪んだ。ごめんなさい、今にもそう言おうとするのを、ママは遮って言う。
「ヒロキはきっと、無事でよかったって思ってるから。大丈夫だよ」
 その言葉に、まわりのみんなが頷いていた。クニコばあちゃんはママの背中をそっと、ぎゅうっと抱きしめていたね。そこにいるみんな、ずっとパパのやさしさに触れていたんだ。
「このやさしさに包まれて生まれてこられる」
 それがパパからの、最初のプレゼントだって、僕は思ったんだ。心にじんわりとぬくもりが広がっていくのを感じた、そのとき。
「痛い」
 穏やかだったママの表情が歪んだかと思うと、お腹を抱えて、うずくまったんだ。
「赤ちゃんが、産まれる!」
 そう言ってママは、ばあちゃんの手を握った。ばあちゃんがママに寄り添っている間に、ケイくんが看護師さんを連れてきたね。大丈夫ですよ、看護師さんにそう声をかけられながら、ママはストレッチャーに乗せられる。
「ヒロキ、産まれるよ。あなたの、赤ちゃん」
 ママは扉の向こうにいるパパに向かってそう囁きながら、分娩室へと運ばれていく。それに続いてみんなが、がんばれ、がんばれと言いながらついていった。なんと、パパのそばには誰もいなくなってしまったんだ。
 きっと寂しい顔をしているだろうと思って、パパの顔を覗き込むと、大粒の涙を流していた。なのに、その表情は全然悲しみに濡れてはいなかったんだ。
 僕は、そのときのパパの、温かいおひさまのような、ふかふかのパンのような、やわらかい愛に満ちたその泣き顔に、引き込まれていった。その目の奥深くに、神様の姿があったんだ。神様は、パパにこう言っていたよ。
「最後の望みを叶えてあげよう。あなたは随分、この世に残してきたものが多いようだ。その中の一つでも、私が満たしてやろうではないか」
 パパは僕の方をじっと見て、その先にいる神様に向かって、答えたんだ。
「俺のことはいいから、ユミコに元気な赤ん坊を抱かせてやってくれ」
 すると、パパの瞳の奥に映る神様は、ほっほうと笑い、大きく頷いた。そして、その姿が見えなくなったかと思うと、あたり一面が眩い光に包まれたんだ。
「ここが天国かい。サングラスが必要かもな」
 そう言うパパの笑い声が、耳の中でこだまするように響いた。光は渦巻き、その先に向かって猛スピードに突き抜ける感覚。パパの声はいつの間にか聞こえなくなって、光がいっそう輝きを増したかと思ったとき。ふわふわな何かで僕の体はそっと包まれたんだ。
「山田さん、おめでとうございます。元気な男の子ですよ」
 
 愛おしそうに見つめられながら、僕はママの腕に抱かれていた。そのときにね、僕は決めたんだ。ぜったいに幸せに生きるんだって。
                  了

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タキダアユ
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