This Is What Disability Erasure Looks Like
これが「障害を除去する」という意味だ
by Emily Willingham
エミリー・ウィリンガム
はじめに
The suspect's desire to erase disabled people lies at the extreme end of the disability attitudes spectrum. How close are all of us to that end?
これは、2016年7月26日未明、相模原の障がい者介護施設で戦後史上最悪といわれる大量刺殺事件が発生し、障害者19人が死亡し26人が負傷したというこの凄惨な事件の翌日、米誌『フォーブス』に掲載された論考のリード文だった。この論考を書いたのは生物学者で、「当事者」というよりは「観測者」の視点から書かれている。当時も、公開するか悩みに悩んだが、「この記事が現代の人類社会に問い掛ける内容は、やはりいまの日本社会に必要な言説だ」と考え、『超訳』でしか表現できなかったものを1年後、改めて原文に忠実な『翻訳』としてTumblrに公開した。
以下は、これを一部修正したものの転載である。
ソース
本編
その日は、アメリカの障がい者コミュニティにとって祝福すべき日だった。 1990年7月26日に 『アメリカ障がい者法( Americans with Disabilities Act )』が施行されて以来の進歩を振り返りつつ、なお残された課題について前向きに考える日となる筈だった。
ところが世界は、かつてナチスが彼らを「この世から消し去る」と宣言して以来、障がい者を標的とした襲撃の中でも最も悪質で残虐な事件が起きたという報道で、その日を迎えることになる。しかもその事件は、日本で起きた。
この襲撃で死亡した人びとが、障がい者施設の入所者でなければ―ロックコンサートの観客や、レストランの客や、大学構内の学生であれば―あらゆるソーシャルメディアの世界で瞬く間に恐怖が広がり、怒りが燃え上がったことだろう。
だが実際は、この原稿を書いている現時点においても、トレンド入りするようなハシュタグや、ホットなまとめはつくられていない。少量のフォローアップ記事が配信されているだけで、それも大部分は通信社からのものだ 。たしかに、「西欧諸国で起きたことでないこと」は一因ではあるかもしれないが、真の要因には程遠い。
この事件でもっとも際立つのは、実行犯の26歳の日本人の男が、犯行に及ぶことを全く隠そうとしなかったことだ。英紙ガーディアンによれば、この男は犯行に及ぶ二週間前に、国会の下院議長(衆議院議長)に手紙を直接渡そうとし、措置入院をさせられていた。
男はこの手紙に、計画していること、そして実践したことを克明に記していた。
植松はこの計画に基づく襲撃により、19人の命を奪い、26人を負傷させた。
He killed 19 people in his attack and left 26 others injured.
「19人」──これが「19人の子ども」「19人の教師」あるいは「19人のレストラン客」だったら、どうなっていただろう?おそらくツイッターでトレンド入りするハッシュタグは『 #ABreakupIsBadWhen ( #こんな時は失恋したくない )』などではなく、この事件に関連するものにとって代わられていただろう。
もし植松の手紙に、子どもや、教師や、レストラン客を殺す計画が書かれていたらどうなっていただろう?おそらく政府当局は、よりいっそうの注意を払っただろう。
だが手紙にはそうは書かれていなかった。 それらの人びとが暮らす施設で働いたことのある人間が、その施設の入所者を殺すことを企図していると、障がい者を殺したいという強い願望があることが記されていた。しかし当局は何の注意も払わず、気にもかけず、備えもしなかった。
この容疑者の願いは、地球上から障がい者を消し去ることだった。
これこそが、障がい者に対する態度の行き着く先に突然現れる「断崖絶壁」ポイントだ。だがそのポイントは、「なだらかな傾斜」の続いた先に生じたものなのである。このような告白の手紙を受けて、「何もしない」ということも、その一端を成している。
そして、次のような傾向も、この「断崖絶壁」ポイントに通じている。
・『Me Before You(邦題:世界一キライなあなたに)』のような映画を 、「障がいを持ちながら生きるよりも死んだほうがまし」という考えを広めているのに、 「悲劇的なロマンス」作品としか捉えられない社会
※この記述に関しては映画の訳者から指摘あり
・ 自閉症の男性は地面に座り込みながらトラックのおもちゃで遊んでいただけなのに、警察の銃の標的にされ、彼を救おうとした黒人男性に弾が当たってしまった事件
・自閉症の人間を支援する目的で設立されたと主張するが、その責任者らは意図的かつ不可逆的に、その守るべき彼らを虐げ、蔑ろにする自称・慈善団体
・障がいのある人びとを嘲笑する大統領候補と、その嘲笑を擁護する人びと
・本来ならいかに「負担」があったとしても、どんな状況であっても、さらし者にされるほど罪深いことのはずなのに、障がいのある子どもを殺してしまう親に対して寄せられる「同情や共感」
・障がいのある子どもへの一定程度の虐待を許してしまう制度の存在
”普通”に見えない振る舞いや行動はすべて公に嘲笑されてよいとする社会
・「低能」などの侮蔑的表現を公言することを憚らないAnne Coulterのような政治の専門家のセンセイ方
・世界中で広範に起きている障がい者たちに対する虐待や暴力の実態
怒りはどこに消えたのか。あったとしても、しごく限定的だ。なぜ?
「障がい者でいるより死んだほうがまし」「障がいがある=完全な人間ではない」というメッセージを、幾度となく、怒涛のように発信し続け、また受容し続けるような社会。個人を一個の人間として見れないのに、そのような怒りが湧き起こる筈もない。
日本で起きたこのおぞましい襲撃事件から、私たちの多くは距離を置きたいと思っている。だが、 あの殺人者が体現したのは、多くの点で、たとえ時には無自覚であったとしても、まさに社会が体系的に幇助してきた「障がい者の除去」なのだという意識を少しでも持てなければ、私たちの多くはそう望まずとも、彼のような殺人者につながる「なだらかな傾斜」により近いところに留まり続ける、ということだ。