【第七歩】舞台「宝飾時計」を回想するの巻・その1
まずは「回想」してみる(※一部ネタバレあり)
2023年1月の第3週、1月15日、1月17日、1月20日の3回、舞台「宝飾時計」を観劇した。
今回は、その感想を書いてみたい。
本来ならば、舞台鑑賞後、興奮冷めあらぬ時期に書いてもよかったのだが、やや時間が経過したところで書くことになってしまった。
感想を一言で言えば、「大変素晴らしかった」わけだが、もう一方で、どこがと言われれば、ちょっと難しい。
全体的によかったという曖昧なことを言ってもはじまらない…というモヤモヤが残っているのを、整理できない状況が今も続いている。
そういうふうにしていれば、時間がばかり経過してしまうので、ここらあたりで、書いておく必要がある。
ワタシが観劇した1度目(1月15日)は、上演後「アフタートーク」なるイベントがついていて、高畑充希と根本宗子による短い対談を観ることができた。
この中で、根本宗子は高畑充希についてこんなことを言っていた。
「…クオリティの高い舞台俳優は2パターンあって、毎日の公演の中でひとつひとつポイントを確実に押さえていく方法でやっていく人と、もう一方はゼロベースで構築する方法でやっていく人、がいる。
どちらかと言えば、クオリティを維持するためには、前者の方が最適で、後者の方はとてもエネルギーがいる。
上演前は、高畑充希さんはあまりにもクオリティが高い演技者なので、前者なのかと思っていたが、実際一緒にやってみると後者だった。
この点はとても意外だったし、とても珍しい。
後者の方法で高いクオリティを維持するのは、とてもたいへんだから。。。」
あくまでもワタシの記憶の中での根本宗子による発言なので、正確なものではないことをお断りしなければならないが、だいたいこんなようなことを言っていたと思う。
だが、この発言が意味するところをワタシはあまり理解できなかった。
これは、やはり間近で演出する根本宗子による、リアルな感想なのではなかったかと思う。
今はもう視聴不可能になってしまったが、youtube「くろねこチャンネル」での対談の中でも高畑充希は毎日の公演を最初「ゼロ」に戻ってはじめると言っていたのを思い出す。
「ゼロ」からはじめるというのは、どういうこのなのだろう?
ワタシは今回、幸運にも3回、すべてかなり前の方の座席で(しかも最後の日は、最前列!)にて、観ることができた。
ならば、ワタシも高畑充希に見習い、3回ゼロベースで感想を書いてみたいと目論んでいる。
一度目の感想を書くの迄に約2週間かかってしまったので、なるべく急いで3回書かねばと思っているところである。
「回想」という熟語は、この演目の感想を表現するのに非常にふさわしい。
言うまでもないが「回」とは、回転する舞台のことでもあり、「想」とは過去と現在を自由に行き来する脚本のことでもある。
実際、一度目はその過去と現在の行き来に混乱したし、2度目、3度目観ると、演出がわざと過去と現在の間に「のりしろ」のようなセリフで、混乱を楽しんでもらうような仕掛けになっているのに気がついた。
今回、ワタシははじめて演劇の公演で「台本」を購入した。
ワタシは演劇はあまり観ないのだが、「台本」が売っている演劇というのは珍しいのではないだろうか?
ということは、演出側もややわかりににくい脚本であることを自認し、台本を観劇後に読んでもらって内容を補完してほしいという意図と、勝手に受け取っている。
根本宗子作品と最近の日本映画について
根本宗子という劇作家・演出家の舞台作品を観るのはこれがはじめてである。
しかし、原作を映画化した昨年の「もっと超越したところへ」は観ている。
だが、こちらはあまりいいとは思えなかった。
もともと観た理由も、今回の「宝飾時計」のためであることと、監督が山岸聖太だったからだ。
山岸聖太といえば、ワタシの一番好きな高畑充希作品であるドラマ「忘却のサチコ」のメインディレクターである。
かなりの期待をして、この映画を観たのであるが、まったくハマれなかった。
その主な要因は、ワタシ自身にあるとも思われた。
というのも、ワタシはいいおっさんの年齢にあるからで、この映画がターゲットにする30代女性の感性に共感は感じられなかったのだ。
また、3つのカップルのストーリーが交錯し、最後にひとつに交わっていくという展開は、おそらく舞台では成功したのだろうが、映画ではそうと言い難い。
この映画もそうなのだが、最近の日本映画において過去と未来を行き来し、ストーリーを構築するような映画が多すぎるように思う。
それは、作り手のご都合主義に感じられるのだ。
そう言えば、成田凌出演の「弥生、三月ー君を愛した30年ー」も公開時に観ているのだが、これも時間軸がかなり激しく行き来する映画であった。
ワタシはyahoo映画に次のようにレビューを書いている。
「…映画は時間芸術と言われる。
しかし、これほど、都合の良い時間展開があってよいものか???
映画はどんなかたちであれ自由なものなのであってもいいはずだが、時間軸が都合よく操られると映画としての感動を得ることは難しい。
ましてや、現実にあった3.11を織り込まれると感情の置き所が難しい。」
ということで、現在のワタシは「過去と現在が激しく行き来する映画アレルギー」のようになってしまったのかもしれない。
だから、この「宝飾時計」も舞台であるとはいえ、観劇前にはやや不安ばかりが先走っていた。
だが、その不安は杞憂であった。
やはり、根本宗子という劇作家は、舞台の人なのだと感じた。
この人のやりたいことは、舞台でこそ成立するし、舞台でこそ生きると思われた。
(やりたいことは何かは、本当にわかっている訳ではないだろうが…)
「宝飾時計」はいい!
「宝飾時計」は素晴らしい。
舞台の回転と時間軸の行き来が見事に交錯している。
椅子やベットらしきもの、階段が円盤上で、自由に動かされ、時間が表現される気持ちよさ。
その上で演じられる役者たちの圧倒的なパワーの振る舞いは、まさに圧巻の2時間30分なのである。
そんな感想を持ったワタシなのだが、映画はかなりの量を観るが、演劇はそんなに多く観ているわけではない。
だが、「宝飾時計」を2度観たところで、この舞台の観劇中の没入感は半端ではないと思われた。
別の言い方をすれば、普通の演劇よりも中に入り込む感じがするのはなぜかと思われた。
ワタシが高畑充希のファンだからという理由ももちろんあるのだろうが、それだけでなく、何か根本的に演劇として、他の演劇より「超越した」ものを感じた。
だが、これは本当に正しいのだろうか?
そういう疑念があり、できれば、他の演劇を同時に観られないかと探ってみたところ、ちょうどよい日時に行ける演目が見つかった。
舞台「日本文学盛衰史」
原作:高橋源一郎 作・演出:平田オリザ
青年団第96回公演
この演目を3回目の「宝飾時計」の前に吉祥寺まで観に行った。
この舞台の作・演出の平田オリザという人の舞台はぜひ一度観たいとは思っていた。
数年前(といっても2012年)公開されたドキュメンタリー映画「演劇Ⅰ・Ⅱ」を観ていたからだ。
この想田和弘監督のドキュメンタリー映画も素晴らしいのだが、それについてはここで書くべきではないだろう。
だが、この「日本文学盛衰史」の感想はというと、ごく普通の演劇という感じなのだった。
率直にあまり面白いとも感じなかった。
おそらくは、こちらの演出も既存の演劇を半ば逸脱するようなことを目指していたのかを感じるのだが、ワタシには届かなかった。
原作も読んでおらず、個々の文豪の名前と関係性も理解していなかったことも致命的かもしれない。
しかし、そういう観客でもある程度楽しめる作品になっていたかというとそうでもないと思われた。
原作は読んでいないと書いたが、ざっくり読んではいる。
といっても何年も前のことなので、記憶にないのだ。
この演目の鑑賞後、池袋に移動し、3回目の「宝飾時計」を観劇した。
この日は、最前列という至福の場所で、しかも中央付近であり、最初のシーンのゆりか(高畑充希)は、かなり近い場所で、観る側なのに過度な緊張を強いられた。
高畑充希を近い場所で堪能できる至福の時間は、おそらく、もう2度とないだろう。
ホリプロプレミアム会員の先行抽選発売で取れたとはいえ、最前列などなかなかないはずだ。
この機会に演技者としての高畑充希の凄さを目に焼き付けておく必要があるとも思われた。
演劇の魅力というのは何かと考えるとき、「生」であることとよく言われる。
その「生」を最前列ではよりリアルに感じられるのは言うまでもないが、ワタシが一番感動したのが、「音」だった。
最初のシーン、ゆりかと勇太の会話のシーンで、ゆりかが自分の膝を叩くところがある。
この音にハッとしてしまった。
後方の席で、この音がどれだけ聞こえるのかわからない。
1度目、2度目の観劇で、あまり感じなかったので、おそらくは、最前列であったので、よく聞こえたがと想像するのだが、この音に感動してしまった。
かなりフェチ的な感想なのだが、もう一度書くと、高畑充希が膝を叩く音に感動してしまったのだ。
つまりは、その存在を音として認識したからだと思われるのだが、まさに演劇というのは、「生」であるからこその魅力がある。
「日本文学盛衰史」も決してよくない作品ではないはずだが、ワタシにはあまりにも「宝飾時計」が圧倒的すぎて、何も感じられなかったというのが正直なところだろうか?
既に東京公演は終わり、2月は地方公演がはじまる。
できれば、地方公演に行ってみたいという衝動に駆られるが、既に3回観ているのだから、これ以上求めてもという気がしている。
セリフ回しは面白いものの、構造はわかりにくいため万人受けする作品でもないだろう。
だが、既存の演劇を壊し、新しい表現を模索する素晴らしい舞台であることには間違いない。
できることなら、多くの人に観てもらいたい作品だ。
という感想文をひとまず一回書いた。
さて、あと2回ゼロに戻って書いてみたい。
今回は、出演者の個別の感想をほとんど書いていないので、そのあたりも交えて書ければいいのだが、どうなることやら…