小説「きみを わする」4

 家で過ごすとき、自身のことよりも有架のことを考えることが多くなったような気がしている。古ぼけたように見える封筒に入っている、例のチケットをよく眺めるようになった。しかし、この奇妙な演劇は何なのだろう。一体誰が考え、作ったものなのだろう。先のストーリーも、プロットも、思想も意志もよくわからない。それでいて、惹き付けてくる。この、不思議。
 今日は初めて、夜からの開演のようだ。いつものように、シャツのボタンを全て確認してから、家を出た。
 例のごとく、チケットを使ってドアを開けようとする。何となくいつもと様子が違う。ドアの向こうが騒がしいのだ。誰か来ているのだろうか?恐る恐る中へ。
 リビングに入ろうとする。低く小さな円卓を囲んで、有架の他に4人の人間がいるのだった。扉はリビング側に開くが、その一人が扉の開閉に干渉する場所に座っており今日は廊下で彼女らの様子を見るしかなさそうだ。親しげに話している様子、そして有架を元気付けているような雰囲気だ。そして、男が入ってきたことに誰も気づいていない。
「にしてもすごいよ、よく集まれたねえ。」
「その話何度目?」
小さな笑いが起こる。
「まあいいじゃない、それくらい嬉しいのよ。だってそれぞれ忙しいのはわかってたのに、今日皆予定が空いて仕事も片付いてって、すごくない?」
「んー、本当は意外とそういうチャンスはもっとあるのかもよ。気付いてないだけでさ。まあ確かにぱっと集まれたのは嬉しいね。」
「前はこの五人でさ、暇もて余していたのにねえ。」
「皆で行った京都、あれ以来俺旅行してないよ」
「ええ?あれいつだっけ?」
「卒業前の年末!懐かしいねえ。」
「深夜に京都徘徊だもんなあ。寒かったよあれは。」
「いや、でも良かったでしょう?」
「いや良かったさ。」
「なんというかさ、路地の至るところに気になるものとかがいっぱいあって、何だろうってよく見ているうちにどんどん興味が湧いてきて、もっと知りたくなるし、関わりたい交わりたいって思うのだよね。あの街並みがそういう気持ちにさせるのかなあ。・・・それで、街の色々なことを知っていくと、自分も変わっていくような気がして、そのつながり、関わりの中で大切な約束が息づいてきたというか。」
「わかる。街全体に、人の気持ちが魔術みたいにかかっていて、どこで何が起きても驚かない感じ。あ、妖怪のせいかなって」
「妖怪?」
「うん、伝統的で、コテコテな、ちょっと愛らしいやつね。」
「そういうの、出てきそうだよね。こっちじゃあそうはいかない」
「東京だったら何が出てくるかな。」
「なんだろう、こっちだったら、あからさまな妖怪っぽい格好は似合わない気がするなあ。」
「ガラス張りのビルの前に着物着たひとつ目とか『けんけん』する傘とかはミスマッチだねえ。」
「うーん・・・。こっちなら、特定の姿形というよりは、影とか、風とか、冷たさとかで出てきそう」
「なにそれ?それじゃ出てきたかわからないじゃん」
「うん、わかんないんだよ。多分。暮らしにうまーく溶け込んでいてわからない。でも、知らないうちに僕たちを脅かしたり、支えたり教えたりしてくれているんじゃないかな。それが街ってことなんだよ」
「何その独特の都市論」
再び笑う。
「だから、僕たちは良いことを考えてなきゃいけない。それが都市を支える、そして自分達を作るってこと。でも悪いこと考えるのもそれはそれで良いんだよ」
「結局どういうことなの?」
「結局?・・・この時が続くといいなって」
「そうねえ」
「うん」
「だから、僕は飲むぞ!」
「結局酔えれば良いと」
「ふふ、結局ね。」

「あはは・・・うん。」

「・・・有架、元気出ないねえ。」
「いやいや、元気だよ。今もなんだか、ふわっといい感じ」
「そうかなあ?そうには見えないけど。」
「いや、本当!わざわざ色々聞いてくれてありがとうね。」
「ふふ、そうだよ感謝してよ?有架が元気じゃなきゃ嫌だもの。いくらでも人集めて、楽しい話しにくるからさ」
「おお、さすが親友。」
「中学校からの付き合いだからね、私たち!」
「うん、そうだよね・・・ありがとう」
「にしても、何なんだろうね、例の」
「うん・・・わからない」
 話は何周かして、男の話になった。
「何かおかしなことは起こるの?」
「いやそれは全然!いるだけって感じだよ。何をするわけでもないし、今思い返すと、見られて気持ち悪い感じはなかったなあ。」

「え、今は?この部屋にいるのかな。」
「やめてよ」
「いやそれは覚悟して来たのでしょ、俺たち」
「今は・・・どうだろう」
 有架は携帯をかざす。何かの反射でのみ男が見えるということを心得ている。器用に部屋全体を見回す。ゆっくりとぐるりと部屋を探索する様子は慣れた手つきで、男がここにいない時でもこの方法を用いているようであった。
 男はこれまでとは違う「探される」という感覚に妙に緊張してしまった。シャツのボタンを確かめる・・・全部ある。
「あ」
「お」
 画面はこちらを向いている。有架が私を見つけたようだ。
「扉の向こうに」
「ええっ!」
 扉のすぐそばにいる有架の親友(らしい)は部屋の逆側に飛んでいき、こちらを睨んだ。他の友達も恐る恐る窓際に移動する。
「そんなに逃げなくて大丈夫だよ、多分・・・。」
「いやいや、酒で判断力変になってない?」
「酔ってなくても同じこと言うよ」
 最初の時ほど有架は怯えなくなっている。
「・・・全然見えないよ」
「画面越しでも?」
 友人たちは有架の携帯画面を覗き、目を凝らすが。
「いや全然見えない。」
「うん」
「そうだねえ」
「そうなんだ・・・。」
 有架は周りの予想外の反応に、驚きと落胆が入り交じったような顔をしていた。
「あ、待てよ」
 親友が画面越しにこちらを見ているらしい。
「扉の向こう、窓の上まで身長がある?髪は長くない・・・よね」
「うん、そうそう。今まさに扉の向こうにいるよ。多分男の人」
「男の人なんだ。そこまではわからないや。すごく、何て言うのか・・・霧みたいだけど、見える気がする。いる気がする」
「本当?見えるのは私だけじゃないのね。良かった・・・。それで、誰か知っている人じゃない?見たことあるような気がするけど、思い出せなくて」
「わからない・・・だって顔はぼやけて何も判別できない。」
「え、そうなの?たれ目っぽい感じとかもわからない?」
「たれ目なんだ。うん。全然。」
「そうなんだ・・・私の方がはっきり見える、のか。」
「ねえ、二人だけで盛り上がっているから状況がわからないよ。」
 残された、男のことが見えない三人が言う。
「本当に。何もわからない」
「少しでも力になれたらと思ったけど、例のやつが見えないとなると俺たちは何も出来ないかなあ。」
「うん」
「いやそうは思わないな。むしろ見えない僕たちこそ、目を凝らすんだ。」
「三人ともごめんね・・・せっかく来てくれたのに」
「ううん、いいんだ。分かることも分からないことも、僕たちは同じだけ尊敬しなければならない。それが無理だったとしてもね」
「ありがとう・・・。」
 形のぼやけたものを相手にする中で、彼らがはっきりと何かを確認した。それは何だったろうか。そして、この演劇の中での男の役割は?傍観者であり、中に入り込んだ役者でもある。私が何か働きかけて、世界に影響を及ぼせるのだろうか。鮮やかに何か掴みとれるのだろうか。世の中の不思議は深まっていく。私は透明で、しかも綿毛のように輪郭がない。

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