思索
作った詩のまとめ。短歌や俳句なども。
とある高校の先生をしています。教科は国語、部活はバドミントン部です(なんだかいかにも教員の自己紹介ですね、はは)。 日々何かを考え、文章にし、担任しているクラスに向けて「学級通信」という形で発表しています。そこそこの分量になったことと、「自分の考えが色んな人に見てもらえたら、自分の暮らしはどう変化するだろう?」という思いから、noteを始めてみました。 基本的には今まで書いてきたものを、(順番はバラバラにして)投稿しています。文の最後に、いつ頃のものか、何年生に向けての
「私が死んだらさ、どうしてもらいたいと思っていると思う?」 ややこしい言い回しで彼女は聞いた。 「どうして、って何を」 「死んだ後の私を、ってこと」 「そうだね・・・毎月お墓に行くし、家にもちゃんと仏壇を作って毎日話しかけたり、死んだら退屈とかそういうのがあるか分からないけど、飽きないようにするよ、きっと」 「ありがとう、そのお墓のことなんだよ」 彼女は、特に死ぬ予定があるわけではないのだけれど、と正しつつ続けた。 「この間ドライブに行った時に見たんだ、『ペットと樹木葬』
深い森を訪れたようになって それですごく、寂しくなって ヘッドホンをすぐに外しちゃったの パスワード 末尾の数字を8に変える慣れた仕草 夜の霧は何かが死んだ合図 彩度の落ちた夕暮れと思念の空輸 森の中に落ちてしまった私の肉体 山ごと飲み込む深夜のバーカウンターで話したいくつかのこと 私の恋人は太鼓叩きだった さりげなくじれったい会話の中に 大切だったものは失った後に発見されるものだね 次の音をほら放って 私の未来で 楽しみに、待っていますよ
俳句です。
空調とカフェインで違和感を抱えた 身体は浮腫んだ針金のよう 網膜の恥と呼ぶほどの青を目の前にして 子どもは走って、走って、待つ光のもとへ あるかなきかの海を今日も見る うすら白く広がる 鮮やかな罪悪感にあぶくが湧いて モチーフは退屈な日々に溢れ返り 脚の裏に砂を確かめる 寛解 夏の残像は空に浮かんで たそがれた輪郭を手に入れる 山の端から雲へ 君も寝そべって見下ろしているんだろう ここは西日がひどく差し あなたは家路を急
諦めはいよいよ、勇気や決意なのかな 君は言った 何か一つ違えば、人類の大きな貢献になったかもしれない隣の道を眺めて 私は今日も冴えない生活をゆく バスはそろそろ海に出る 勝手知ったる自分の癖 今日も大それた行動には出ないでしょう ただ眺めて それは風であって 涙でもあった 大部分の人には何でもない 夏の夜 冬の喧騒 私の発明を 公共広告にしてくれませんか 街中に広まって それで こうじゃなかったと悩んで 優越感と背徳感の中に 沈めてくれませんか どうか僕を 私を そうでな
炎めいた記憶は 缶コーヒーの甘さみたいに体を侵して消えてゆく 「今日も駄目だったね」と確認して それで満足だよ私の生活は 長い橋 街灯の葬列が帰る場所を導く 生命も哲学も寝静まったキッチンで 夜空を感じるひとときをかろうじて確保して いつか旅した土地と今見ている景色が二重写しになる コップに注いだ平穏を飲み干す 安心が少しだけ体に入ってくる 何の意志を持っていないように見える その瞬間の表情が好きだ 何も言わず ただ踊っていてほしい いつまでも終わることのない慈雨の中で
君の大きな海が 僕の心を押し広げてゆく 漣をかき分けているのは あの頃の記憶と灰色 まだ僕の目には映らない 光の種類を纏って 一輪挿しの花に集う会話のように 消えていった人 忘れ去られた街の呼吸と 寝起きの少年の鼓動が 一度に収められたネガフィルム 部屋のどこかにまだあったはず だけど ああ 僕らは今 最後のダンスを踊っている それが永遠だとも知らずに 朝日を背にして ひとつの影を作る
しっかりと日々を送ることに忙しくしています。 夏の終わりまでには、何か成果をあげたい。
大学時代の友人が、雑誌「短歌研究」の特集で、「俵万智の全歌集を『徹底的に読む』」という記事を書きました。 以前から、私が書いた小説について話したり、そういうことを抜きにしても楽しく遊んだりする仲で、そういう人がこうやって活躍しているのが嬉しく、思わず本人に感想を送りつけてしまったので、こちらにも載せておこうと思います。本人には承諾をもらっています、というか、むしろそれを薦めてくれました。 ちなみにその友人は「スケザネ」名義でYoutubeで活動しています。そちらもぜひ
高校教員です。 今年は少し仕事にも余裕があるので、以前やっていたクラス生徒向けの手紙を書いている。週1回くらいのペースで続けられたらと思っている。 以下、今週配ったものの内容です。 【現代文の授業で話したこと】 この間、現代文の授業で「大衆」と「自己」について話しました。近代という時代は、「大衆」という概念が生まれ、そして「自己」を探す旅が始まったというような話でした。「アイデンティティの危機」という問題は今を生きる私たちにも地続きの問題だ、というような結論を出し
高校教員です。 2020年度が終わった。 なんだか全然よくわからない1年だった。大抵、「今年はこんな年だったな」とか「今年はこれを頑張ったな」とか思うものだが、それがないのである。この1年間を自分の心の中に位置づけることができず、「振り返り」というものが成立しない。こんな宙ぶらりんな気持ちも、何年か経った後で、「あの時ってああだったなあ」だとか、思い返すことができるのだろうか。 そのようなことで、今回は「今考えていること」を録しておくことで、振り返りとしたい。
高校教員です。 教室で。 何かの助成?の一環で、新聞4紙が毎日配られる。 その時々で、目立つ話題に対してコメントをする。政治・経済・国際・社会など様々な話題について触れる。自分も、世の中のことを勉強している感覚だ。 今週(2021年3月8日~11日)は、「東日本大震災」の話題が多くなる。今年、特に目に留まったのは、地震当時、単身赴任で離れて暮らしていた夫婦についてのインタビュー記事だった。東京にいた夫は陸前高田にいた妻を亡くし、「もしあの時一緒にいられたら」と後悔し
「違い」って何だろう、とたまに考える。 「発酵と腐敗」の違いって何だろう。人間に有益かどうかで決まっているらしい。 「蝶と蛾」の違いって何だろう。植物などに留まるとき、羽を広げるかどうかで決まっているらしい。 どちらも、人間から見た解釈で、違いが規定される。 さらに思考の歩を進めて、「理解と差別」の違いって何だろうか。 発酵と腐敗の例に同じく、これらは人間にとって有益かどうか、という基準で違いが認められているようだが、実はこの二つ、本質は同じかもしれない。違い
20年前に死んだロッカーの歌を今聞くとき 今僕の中で初めて再生されたこの優しい歌が はじめからなかったなんて不思議で不思議で 生まれたばかりなのに 失われていたなんて 胸がすく思いになる 今この瞬間 君を好きと言うだけで それで十分なのにね 意味とか関係とか未来とかが 僕を追いかけてきてしまって また今日も嫌になってくるんだ あの旋律だって 削れた死の美しさだなんて誰かが言う 生命のエネルギーだったと教えてよ せめて 今消えてゆく光にも 落ちてゆく太陽の祈りにも いつかそ
高校教員です。 ある時、放送機材のトラブルで、始業のチャイムが流れず、ノイズの音になった。 「チャイムがリニューアルしたね」などとおどけて見せる。 その後で、「ノイズが音楽に聞こえるという視点もある」と話した。 そこで、池田亮司さんのパフォーマンスを流してみる。 授業が終わった後、「さっきの人の名前教えてください」と話しかけられた。 うむうむ、良い。 別の機会で、生徒に宗藤竜太さんを紹介した。 どうやってこういう音楽を知っていくんですか、と聞かれる。