怒りを超えて理知と優しさへ
高校教員です。
2020年度が終わった。
なんだか全然よくわからない1年だった。大抵、「今年はこんな年だったな」とか「今年はこれを頑張ったな」とか思うものだが、それがないのである。この1年間を自分の心の中に位置づけることができず、「振り返り」というものが成立しない。こんな宙ぶらりんな気持ちも、何年か経った後で、「あの時ってああだったなあ」だとか、思い返すことができるのだろうか。
そのようなことで、今回は「今考えていること」を録しておくことで、振り返りとしたい。
いつだって、「理知的で、優しくありたい」と思う。
今年は、納得できないこと、やりきれないこと、我慢しなくてはいけないことが無数にある1年だった。そのたび私は、苛立ち、呆れ、時には怒った。なるべく機嫌よく生活するというモットーで仕事をしていたつもりだったのだが、奥底がどうにも抑えきれない。自分の「イライラする」という感情と向き合うことがとにかく多く、自分の中にまだそうしたネガティブな気持ちがあったのか、と、戸惑ったし、正直に言って嫌気がさしてしまった。外に向けた苛立ちは、最終的には自分に向かってくる。それを全部受け止め切った上で、それでも優しくしていられる人を尊敬するし、もしかするとそういう優しい人が見ている世界は地獄なのかもしれない。人間は容易に「自分用の地獄」を作ってしまう生き物だ、と聞いたことがある。優しい地獄、笑える地獄を進む人達のことを思う。
「二項対立を超えていく」ことが、現代思想の一つの特徴だよ、と、今年の授業で話した。理性というものは、人類が生み出した叡智の一つであることは間違いない。しかしそれが最近いささか暴走気味かな、と思う。他人を蹴落としたり、打ち負かそうとするために知性を行使したり、心の働きを向けたりする人がいる。そんなことをたくさん見てきて、私はもう飽きた。
敵対の構図を作るのではなく、そして“相手”を押しつぶそうとするのではない形で、自分の知性を燃やしていきたい。そうした態度は、巡り巡って、「優しさ」につながっていくのだ、と固く信じていきたいと思う。対立に見える両者の間に、実は壁などなく、我々を取り巻く環境(仕組みや思考の枠組みそのもの)に問題があっただけなのだ、ということを示していきたい。
本当にそれが達成できた時、多分そこには、二項対立なんて生まれるはずがないのだ。
「コロナ以後」という思考の枠組みが、我々の中にできつつある。それはきっと、放っておくと、「新しい日常」とともに「新しい分断」を連れてくるだろう。でもそれは絶対的なものではなく、人間たちが作り出したまやかしに過ぎない。ひょっとすると、人間とコロナウイルスとは、対立するものではないのかもしれない。
次の1年が始まる。知性と優しさをもって、生活を続けていきたいと思うのだ。
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