小説「きみを わする」3
酷い宿酔である。止めておけば良かったという毎回の朝の後悔にも関わらず、焦燥感の夜にはグラスを煽ってしまう。
思考の靄がどうにも払えない時がある。そして、最近それが少しずつ増えているような気がする。覚えておくべきことも忘れてしまい、人に迷惑をかけたり、自己嫌悪に陥ったりする。そういえば、先日の例の女が言っていたことはよく頭に残った。自分にも重なるような体験が述べられていたからだ。ひとつも落とせないと思っているものほど思い出せなく、石ころのようなちっぽけに思えるものほど、その表面や質感、重さや色まで克明に覚えているのだ。どうしてだろうといつも不思議に思う。
いつの間にかこうなっていたのだと思う。少しずつ亀裂して、記憶の溜池は決壊する。潤沢であったはずの記憶の容積はやがて忘却の積重となり、現在を疎外する。その感覚に、叫び出しそうになる夜。その次の朝は必ず、先の後悔が起こる。
あの日の母の教えや、もう小さく感じる、かつての大きな街の風景。記憶が零れていくひび割れは恐らく、重大に致命的な何かをしているか、またはしていないかの結果なのだろう。
あの日から一週間。思い頭を抱えて、例の部屋に赴く。上着のボタンは取れていない。コートのボタンが取れてしまってから、何かにつけて確認するのが癖になってしまった。
もう手慣れた手つきで503号室に入っていく。今日は曇り。その割には空は暗くなく、風も涼やかだ。
古びたアパートの割には広いベランダがあり、水木という彼女はそこを上手く利用していた。縁にはたくさんの植物を植えている。葉の小さいものや腰くらいの背丈のもの、種類も多岐に渡る。端正に手入れしているような場所であった。そして今日、彼女はそこにいた。
木でできた椅子に腰掛け、身体は背もたれに預けて、物思いに耽っているようだ。ベランダの外を眺めているようにも見える。今このアパートの裏では何かを取り壊した後にまた違う何かを建てる準備をしているようだった。今日は休工日なのか、建機がとても静かに曇りがちな空を仰いでいる。
傍らには小さなテーブルがあり、恐らく自分で育てたであろうハーブを使った茶が乗っている。時々それを飲み、また外を眺める。端からは何もしていないように見えるし、本人も何も思っていないのかもしれないが、そこには実は膨大な思考が行われているのかもしれない。そんな雰囲気を醸していた。前回、前々回ここに来たときよりかは、幾分か穏やかな雰囲気である。
突然、テーブルの上の電話が鳴った。画面を見、すぐに話し始める。
「もしもし!あ、有架です!」
事務的ともとれるような、親しみがこもっているとも取れるような、微妙なトーンの声。男も少しぼんやりしながら、電話口の相手になってみたようなつもりで、話を聞くことにした。そういえば、下の名前を初めて知った。電話の相手は前に彼女が訪ねた親戚のようだ。
「この間はありがとうございました。すみません、急に伺っちゃって・・・はい。でもなんだかすっきりしました。なんだかこっちよりも空気が澄んでいて、過ごしやすかったです。もうあのまま住んでもいいなあってくらいに・・・。あはは!そうかもしれません。」
「え、本当ですか?何から何まですみません・・・。それで、写真はどうでしたか?上手く復元できましたか?あ、メールで。ありがとうございます。」
有架は再び携帯の画面を見る。復元したという故人の写真をデータにしたものが送られているようだった。有架は画面を凝視する。男も、画面に反射する有架と目が合わないように画面を見つめる。そこにはセピア色の写真があり、一人の人物が写っている。老婆のようであるが、写真からはそれくらいしか判別がつかず、顔の輪郭や目鼻の起伏はぼやけたようになっていた。
「うーん、何となく、わかるような・・・。とにかく、ありがとうございます。」
「やっぱり思い過ごしなのかなあ・・・。いや、この間話した、家に出る幽霊のことなんです。そちらから帰って来た後も出て、一回、二回だったかな。一回だけじゃないし、脅かしてくる様子もなくて・・・。だからやっぱりあれは昔の知り合いの霊で、何か伝えに来てるんじゃないかって。虫の報せみたいな。そういう実感も含めて、間違った方向に行ってはないと思うんです。」
「本当にありがとうございました!また何かあったら電話してもいいですか?・・・はい。はい。では失礼します。」
一息ついて、またじっと考え込んだ。あの、無意識下で膨大な思考をしているような体勢になった。幽霊だと思われている自分の正体を突き止めようとしている、この有架という女。しかし、彼女には私をわかる時が訪れるはずがない。私はあてもなくここに来たに過ぎない傍観者なのだ。それはわかりきっている。
それでも、何か心に引っ掛かる。いっそ僕のことなんか、すべて暴いてほしい。そうすればどれだけ、楽になるだろう。自分が持っているものなんてこれっぽっちもないはずなのに、それは焦点しようとするそばから滲んだ。そうするとそれは水面を走る波紋のように無限に広がって、その端は見えないほどだ。それでいて、何も無い。隣り合わせの、無限と零との間にいる、ただそれを眺めるだけなのが自分だ。
今回は女に気づかれなかった。そうして、心の中で幕を下ろし、宿酔を少し忘れた体で、家へ戻った。
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