小説「日々」

 電車に乗っていたはずだった。
 そんな言葉が頭の中に浮かんだ時、ちょうど車両の窓から光が、不躾になだれ込んだ。なぜこうなったのだろう。あまりの眩しさに目を細め、意識は真っ白な視界に飛び込んでいく。この明るさに慣れるまで手間取る、瞬間の白昼夢。眩暈。

 今日はいつも通りに、何の淀みもない休日を過ごすつもりだった。ごく簡単な買い物でもしようと、街に出るため地下鉄に乗った。昼過ぎの電車は人もまばらで、車両の揺れも心地良い。昨晩少し夜更かしをしてしまっていたのもあって、たった三駅先を待てずにうとうとしてしまった。はっと気づいて、寝過ごしてしまったかもしれないと思い次の到着駅を確認する。しかし、ドア上の電光掲示板には何も表示がない。少し待てばアナウンスが入るかと思ったのだが、それもない。停車もする気配がない。しまいには、次の駅も、今どこを走っているのかも、何もかもわからなくなってしまった。
 他の乗客も異変に気付きはじめたようで、学生らしい二人組は何か訝しげに話し始め、携帯電話をしきりに操作している。ビジネスマン風の男は明らかに苛立ち、お年寄りは話し相手を求めて手当たり次第に話しかけていた。
 電車が動いているということは、少なくとも運転手はいるはずである。意図的であれ、何かしらのトラブルであれ、こんな事態になっては乗客に状況説明をするはずだ。しかし、何一つ音沙汰がない。運行スピードや列車の揺れ方には、余裕すら感じる程だ。普通の電車に乗ったはずなのに、なぜこうなったのだろうか?
 乗客のざわつきは、しばらく続いた。やがて列車は地上に出た。窓の外が陽の光で眩しい。思いがけない景色に、皆、うろたえている様子だ。確か、私が電車に乗る前は曇っていたはずだ。そればかりか、乗った路線には地上部分などなかったはずだ。
 この時点で、体感では3,40分は経っていた。何となくこのaccidentalな空気を共有し始めていた乗客たちは、窓の外に目を遣りながら、諦めにも似た表情を一様に浮かべた。もう元には戻れないのだろうという感覚を、それぞれが理解し始めていた。
 外は何の面白みもない住宅地であった。

 しばらくして、同じ車両の一人が、おもむろにアコースティックギターを取り出した。簡単なチューニングを済ませ、指で音を鳴らし始める。派手でない和音を一つ一つ、端正に弾き、時にはゆるやかな単音のフレーズを繰り返した。漣が引き返すように、また和音を奏でる。そこには意思もなく、風と風の隙間を抜ける蝶のようであった。それでいて、おそらく彼の中では独自の、誰とも分かり合えないような秩序があって、それに基づいて音を選びとっているのだろうとも思えた。その心地良さに耳を澄ましながら、彼の持つ交友関係についてあれこれと想像した。きっと、穏やかな会話で、ゆっくりと呼吸ができる範囲を広げていくような、そんな信頼関係を築く人なのだろう。

 そう言えば、と気づいて、私は手帳を取り出した。日頃から、数行にも満たない日記を書きつけていることを思い出し、それを繋げて詩を作りたくなったのだ。ページをめくり、いくつかあたりをつけ、一つのページにまとめていく。さらに言葉を付け加えて、一編の詩に仕立てようと頭を悩ませた。少しまとまった内容になるように注意をする。言葉同士が近づきすぎても、離れすぎてもいけない。難しくも、楽しい作業だった。
 作った詩はこうだ。


 昼下がり、俄かに晴れ間が見えた
 冬の車輪はレールと摩擦して、密かに熱を抱いている
 その熱はやがて夏となり、想いを募らせていくだけだった
 君まであと少し
 交わらないlayerの世界の外で、距離だけは、あと少しなんだ


 こんな言葉が自分の中から出るなんて思ってもみなかった。書きつけた文字を眺めながら、内容を反芻する。ギターを弾いている隣で、声に出して詩を朗読してみたくも思った。しかし、今だ、今だ、と、長縄跳びをしているような気持ちに陥っているうちに、機を逸してしまった。彼は、お年寄りに話しかけられ、器用に手を動かしながら、応答している。話す合間にコードを一つ鳴らし、相手の話を理解しながら、伴奏を付け加えているようでもあった。新しいリズムが足され、音の円は少しだけ広がったと感じた。
 鉄でできた六本の弦と、フレットと、それを響かせる空洞の構造と。ただそれだけでこんなにふくよかな表現を作ることができるだなんて、偉大な発明だと思いながら、その会話の様子を横目で見ていた。

 やがて海が見え、そして夏が見えた。
 ギターの音に向けられた目は、そのまま窓の外へと向けられた。ああ…という感嘆の声がうっすらと聞こえる。正確な場所はわからないものの、いよいよ来るところまで来てしまったのだな、とでもいうような響きだった。
 外は一段と眩しく、車内は際立って暗く、人も、座席も、壁も、均質のものになってしまった。列車の窓は、光を映す額になり、あの空に合わせたような大きさで、風景を縁取っていた。乗客たちの不安や戸惑いも、海と光が飲み込んでしまったようで、もう列車は止まらないのだと断定してしまえば、むしろ腹は据わってくるらしい。私自身、特急車に乗っているような、軽やかな心持もし始めていた。
 薄暗い中で、自分の輪郭は、むしろ濃くなったように感じる。視線は、太陽の照り返しとゆっくりとした波のうねりを見つめていた。海が少しずつこちらに近づき、大きくなっているように錯覚した。視線の先に、自分の意識ごと没入していって、そのまま勢いよく飛び込んでしまいそうなほどだ。海がもう一度、しぶきを上げる。

 海が見えてからまたしばらく経って、電車の走るスピードが緩まってきた。ブレーキもかけず、慣性に従って、停車の準備をしているようだった。そう感じてはいても、どこかの駅に停まるという確信が持てない。それに、たとえどこかの駅に停車したとしても、それが実際の運行に使われているような駅であるとも限らない。
 その心配をよそに、電車はゆっくりと、到着地点を探した。山をくぐるトンネルとトンネルの隙間で、停まるべき場所を見定めるように徐行する。それを何度か繰り返したのち、とうとう電車は完全に動きを止めた。
 到着しましたよ、という耳慣れないアナウンスとともに、片側のドアが開く。列車を出ると正面には先ほどから見えていた海が百メートルほど先にあり、背後は山に囲まれている。ホームには屋根も椅子も何もなく、海へと抜ける階段のような段差があるだけだった。明らかに貨客駅ではない。貨物用のホームだとしても、こんな所に誰が何を運ぶのだろう?
 納得のいかないことだらけだが、ともかく海に近づこうと歩き始めた。他の乗客たちも、ぼんやりと列車から離れていく。浜辺までは割に歩きやすく、人の背より少し高いくらいの木々が日の光を優しく遮っている。木の根につまずかないように気を付ければ何のことはなかった。
 水際に出る。波の音は心地よく、そして終わらなかった。私は波の音を聞きながら、今日のことと、列車の中で聞いたギターの音色を思い返した。普通の休日を普通に過ごそうと思っていたつもりが、なぜこんな所にいるのだろう。そして、違和感を覚えながらも、海の繊細な音響に耳を澄ませている自分を受け止めようとしているのはなぜなのだろう。そしてそうした疑問も、波が引いていくように、気にならなくなっていった。波打ち際に手を浸す。水と砂と手のひらの境目から、自分の中の余計なものが解毒されていく感覚を覚えた。少し遠くで、同じ乗客であったろう親子連れが水をかけ合って遊んでいる。小さな子どものはしゃぐ声。心から嬉しそうな声だ。思えばあのギターの音も、この心だったのかもしれない。私の手元から、砂粒が流れていく。それはいつか、向こう岸に届くのだろうか。あるいは海の大きなうねりに乗って、どこか知らない所、海の底に沈んでいくのだろうか。

 海の音に混ざった旋律が聞こえる。振り向くと、先程の彼が、ちょっとした岩場の上に腰かけ、ギターを弾きながら何か歌を歌っていた。どこの言葉かわからないくらい朧げに、性急でない音の並びであった。
 ここで、さっきは断念したことをもう一度試みようとする。あの音楽に乗って、言葉を鳴らしてみたい。そう思った。緊張しつつも、相手を怖がらせないように、精いっぱい平静の顔で近づいていく。こちらの声が届きそうな所までたどり着くと、彼と目が合った。彼は私の表情から何か読み取ったのか、少し演奏の音量を上げて、そしてすぐボリュームを下げた。バトンが渡されたと感じた。


 昼下がり、待ちわびた晴れ間は見えた
 冬の車輪はレールと摩擦して、円を描きながら密かに熱を抱く
 その熱はやがて夏となり、想いを募らせていくだけだった
 波は崩れ、枕木を撫でると、また天を触るそのリズム
 君は隣り合わせの僕の世界で、柔らかな鉄の呼吸をして
 あの海の向こうに、祝祭を待ちわびている


 はじめは彼も少し驚いた顔をしていたが、やがて笑った。小ぶりなギターも、笑っていた。

 日が傾き切り、少し冷えてきた。そろそろ車内に戻ろうかと思ったタイミングで、電車の警笛が一度、短く鳴った。また電車が動くのだろうと思い、皆少しずつホームまで戻っていく。私達も顔を合わせ、ホームに向けてゆっくりと歩き始めた。
 詩を詠むことは初めてだった。彼に近づく瞬間こそ勇気が必要だったが、やってみると案外自分にとって自然なことだと感じた。いつもそうだ。やってみれば簡単なことなはずなのに、行動を起こそうかどうしようか躊躇してしまう。もしかすると、思い悩むのは、手放せないものが心にあるからなのであろう。今日はそこが気にならなかった。気にするより先に、足が動き、彼と目を合わせ言葉を発していた。この覚悟を、はじめから持っていればよかったのだ。と、自分の生活を振り返ってみて思う。

 乗客たちが再びホームに集まってきた。それを見計らったように、運転手がアナウンスを始める。今回の顛末については、なぜか誰も、この運転手に問い合わせていないようだった。
 「自宅に戻られる方は一、二両目に、このまま先を目指される方は三、四両目に、自由な行き先を望む方は五、六両目にご乗車になり、行き先を思い浮かべてください。十分後に発車致します。」
 もう疑問すら感じず、皆乗る車両を選び始めた。停車する前まで同じ車両にいたお年寄りはすでに二両目に乗っている。海ではしゃいでいた親子連れは、家族会議の結果、子どもがこの先に行くことを決意したらしい。
 私は六両目に乗ろうと、ゆっくり動き始めた。そこで、ギターを抱えた彼と再び目が合った。せっかくだからと思い、話しかけてみる。どこに乗るかと尋ねると、その彼はギターとともに三両目に乗るということだった。このまま行ける所まで行ってみたいのだそうだ。
 少し寂しさもあったが、互いの決意を讃え合い、握手をして別れた。連絡先は交換せず、名乗ることもしなかった。

 ふと気づくと、私は自宅のソファに座っていた。なんの変わり映えもない部屋を見渡すと、窓は締め切られていて、カーテンの隙間から差す光が朝を告げていた。随分と汗をかいていることに気がつき、首筋を撫でる。指先についた砂がうっとうしい。このうっとうしさを除くため、シャワーを浴びる準備を始める。多分、この砂を洗い流したら、また元の生活に戻れる。そんな気がした。それが名残惜しくもある。一度その手で胸の辺りを撫でた。
 今日は夏至の日。昼の時間が入道雲のように、一番長くなる。

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