小説「きみを わする」序

 あの日彼は東京湾の揺らめく水際を。
 思えば、最初からそうだったのかもしれない。


 男は今、海のすぐそばにいる。漂着した木片のように、とぼとぼと海岸線を歩く。目的はない。・・・いや、目的はあるのだ。ただそれを果たす勇気もなければ、そこまでの陶酔もしていない。
 昨日から少し続いた小春日和から一転、午前中は雨が降ってその少しの熱は覚め、午後は晴れたが代わりに放射熱がこの街を長い冬に戻してしまった。特別寒いわけではないと天気予報は言っているがそれは例年に比べてのこと、昨日と比べると顔は切られるよう、骨身は辛い。海は存外穏やかで凪いでいるものの、時おり吹く風。風が止むとそれは引き潮のように、男を海に近づける。ただそれは物理的要因のみがそうさせるわけではなかった。
 何不自由なく暮らしてきた。つもりだった。それなりの友達、それなりの成績、それなりの恋愛、それなりの評価、思考、思想、数字、感覚、信頼、収入。普通に生きてきた。今思えば、「完璧」が「普通」の顔をしていただけなのかもしれない。普通に、慎ましやかに過ごしていきたい完璧主義者。悲しいことだが、それが彼の性質であり、今、生き死にのぼんやりした恐怖に際しても振る舞いから滲み出る自己、なのである。
 風の吹く間隔は少しずつ広くなっていることを、気のせいにしろ感じている。ふと来る闇。静寂に形があるのなら、こんな格好だろうか。街灯の点々が繋がり、一本の橋になる。橋を通る車のテールライトも、それを照らす灯りも、そこにある波を変え、世界に影響を与えているのだった。
 きっかけは些細な事だった。朝の電車で、コートの袖のボタンが取れかけていた。今日の午後二時四十三分がとっても晴れていた。それくらいのものだ。自分でも自覚している。今日この一日で、特別大きな出来事があったわけではない。二十三年二ヶ月と一日が、彼を今ここに置いているのである。
 何もない自分がこのまま生きていても、何か意味を残せるのだろうか。漠然とした恐ろしさ。彼にはそのどろりとした空虚の感触を確かめることしかできない。
 ・・・何を馬鹿な事を考えているのだ。死ぬのはなしだ。という結論にしか辿り着かない。結局、大それたことは出来ない。自分でもわかっているのだ。死ぬこと、海の匂い、遠くにイルミネーション。水面は鏡。
 
 分かっていたことだが、帰宅した。きれいと言えばそうだが、地味と言われればやはりそうな部屋である。彼はソファに腰かける。息を吸って吐く。そういえば、昨日郵便物を整理していたのが途中だった。日々溜まる紙と封筒の束。渋滞する思考。
 思い返せば、「あれかこれか」に翻弄されているこれまであった。「頭の中の天使と悪魔」ならばわかりやすいのだが、自分の中にはただ、二つの思念の体系があるだけ。右足から歩き始めるかそれとも左足か、明るく振る舞うべきか黙っておくか、社会はどちらに進むべきか。「彼ら」は善悪を越えたところに判断の終着点を求める。
 さっきだってそうだ。海の中に入ってしまえば、最初は苦しいかもしれないが、いずれ感覚は薄れて、暗くて冷たい水に抱かれて今眠りについていたはずだ。しかしそれをしなかった。その瞬間の恐怖を恐れて、生きる方を選んだのだ。平穏を得られるかもしれない可能性を捨て、日常に戻る選択をした。あの形のない手錠をはめられた日常に。感覚なんてとうに亡くしてしまった、あの日常に。男にはすでにどちらも最善の選択には思われなかった。すでにそういう袋小路に来ていたのだ。そして男はいつも何もわからなくなって、うずくまってしまうのだった。

 ダイレクトメールやとるに足らない広告の中にいつもとは違う感触を確かめたのは、だいぶ夜も更けてからだった。今日は新月である。星は良く見えるだろうか。
 濃い茶色の封筒である。しっかりしているようにも、古ぼけた感じにも見える。それが新しくも感じる、そんな見た目だ。とにかく商業的匂いをまとった雰囲気がなく、封筒の山からは異質であった。住所や宛名はなく、どうやら誰かがわざわざ家の郵便受けに直接入れたようである。いたずらかもしれないし、そもそも自分のみに送られたものなのか、それとも隣の部屋にも同じものが届けられているのか。封筒の外見からは推測がはかどらない。
 とにかく、開けてみるしかない。チケットが10枚。なんだろう、これは。ますますわからない。とりあえず、そうだな、眠りに落ちて行く・・・

 しばらく抜け落ちた時間の感覚の狭間、嫌な首筋の汗を拭いながらもう一度よく見てみる。演劇のチケットのようである。場所と、場所までの地図と、大体の開演時間が書いてある。大体の開演時間?終演時間は書かれていない。
 自ら命を絶つ選択も、前を向いて生きていく選択も決めかねていたからこそ、良かったのであろう。男は半ば自暴自棄的に、このチケットに興味を持った。どちらかの側に寄っていたのならば、これは起こらないことだった。早速明日、上演があるようだ。男は先程の中途半端な眠りを取り戻すように、床に就いた。

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