いつも僕は、虚構に溺れていく

高校教員をしています(いつもとちょっと変えた)。

今、坂口恭平さん『現実宿り』を読んでいる。本当に序盤も序盤なのだが、今のところ、話が全然分からない。わけも分からず、読んでいる。
人称も、情景も、視点も、ルールでさえ、定まっていかない物語。定まらないで、言葉の流れや働きが「ある」という感覚。自我も薄れていって、そこに描かれる物語を追っていく。言葉の海に溺れていく自分を発見する。そして、それは必ずしも嫌な感覚でもないのだった。

時に僕は、この「溺れる」というか、深い森に踏み込んでいく感覚を楽しんでいるのだ。その森は時に言葉であり、音の洪水であり、物語なのである。自分のことでない出来事に自分を重ね、たまにはその逆、自分に物語を引き寄せたりしながら、涙を伴ったり、疑似的に息を止めてみせたりする。それで、翌朝になれば、結構機嫌よく、生活に戻れたりするのだ。

思えば現実の喧騒も、同じ作用で動いているのだろうな、と考える。
厳然として動かしがたいようなことも、意外や意外、ただ約束事で成り立っているだけで、それはつまり虚構、この感情も、結構バーチャルなものだったりする。僕はそれに一喜一憂するけれど、呑まれるほどのことでもないのかな、と、最近少し思えるようになってきた。虚構と実存とは、実はあまり違いがなく、境界線も曖昧なのかもしれない。

小説や映画、創作物が担う虚構の意味は、こういうところにあるのだと僕は思う。虚構をもって、現実にある(と思っている)物語を発見する。自分の周囲の関係性を、異化する。映画館を出たあとの、世界が違って見える感じは、こういう効果と関係があるのかもしれない。

あらゆる感情は、約束事の上に成り立っている。それをメタで、俯瞰して見る思索だけが、本当のところなのではないかと思う。その思索は、何によって、どう変化していくか。

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