海を漂う思索

この記事。

Twitterの方で、たまに紹介してもらえる。
自分としても、ここに書かれていることは、自分の核になっている。今でも。
だから、この記事がたまに誰かの目に留まって、読まれて、紹介してもらえるのはありがたいと思うし、本気で思っていることは伝わるのかもな、と思う(逆に、ちょっとしか思っていないことは伝わらない)。実際、この記事だけ読まれている回数の桁が違う。
そういう記事を残せてよかったなと嬉しくなるのである。

そして不思議なのは、この記事が、見ず知らずの誰かにつぶやいてもらえること。
自分の思索がネットの海を漂って、誰かがそれに気づいたところで像を結ぶ。そしてまた、息を吹き返したようにビュー数が伸びるのだ。この一連の流れがとても不可思議。
誰かとつながっている。それは、何で繋がっているのか、いつ繋がるのか、誰と、なぜ繋がるのか。何一つ分からない。そういう、偶然で出来ていて、再現性もない、緩やかな繋がりがとてもありがたい。
以前までの、一人の人間を取り巻く強い繋がり(地縁とか、血縁とか)に息苦しさを覚え、外に出ることもままならず、物理的な場を共有することもできなくなった2020年。分断は大きく深刻になりつつあると言われたりもして、言葉を持つことそのものが分断の入り口なのかとさえ思ってしまうこの頃。
緩やかに、そしてしなやかに繋がって、皆(それは同質性を持つ集団という意味ではなく)で越えていきたいなと、生意気にも思うのである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?