小説「きみを わする」8
今日はいつもと様子が違った。男は、初めて有架と言葉を交わした。
男は、ベランダに置いてある椅子を部屋に持ってきてもらい、腰掛けている。部屋は間接照明で薄暗く照らされ、暖色の優しさと安堵が部屋に行き渡り、時々有架が飲む酒が氷と共に鳴る。それだけで、部屋が満たされていた。初めて会う、古き友人だ、と男は思う。それは有架にも話したが、多分忘れているだろう。
もうどれだけの言葉を交わしたろう。時間もわからなくなってきている。今は何時なのだろう。もう朝に近いのか、それとも夜は始まったばかりなのだろうか。それどころか、時間は今正しく進んでいるのだろうか?逆行してはいないか?それすら定かではないような空間だ。ここがひどく抽象的な場所である、そういう認識を男はした。意識が、のぼせた熱のようにぼうっと、かつ冷たい水のようにはっきりしてくる。その感覚に男は陶酔した。それは多分、この目の前にいる女もそうだ。それがずっと続いている。
男が今日この部屋に姿を現すなり、有架はこちらを直視した。男はそれが二回目の経験でありながら、戸惑った。有架は目を合わせるなり、リラックスしているような呂律が回っていないような軽い口調で挨拶をしてきた。「こんばんは」
男はまともな返事を返せない。軽い会釈をした。有架は続ける。
「なんだか不思議、今日はあなたが見えるわ。揺れてはいるけど。消えてしまわない?話しかけてもいいのかしら?」
男は大丈夫だと思うと答える。有架は少し微笑んだ。顔が紅潮している。かなり酔っているに違いない、と男は推測した。
「話せる機会なんてきっと貴重だから、ゆっくりしていって。直視できるってことは、あなたが何なのかわかりかけてるってことなのかな?それとも酔っているだけかも。どちらもなのかもしれないし」
「あなたが現れてから、生活がちょっと変わっているのよ。それは悪い風にってだけじゃなくね。良いこともあり、悪いこともちょっとあり、って感じです。最初はすごくびっくりして悩んだけど、かえって色んなことを考えたりして、今はなんだか生き方の方向性まで定まって来ちゃいそう。」
笑いながら有架は話を続けるが、少し悩ましい気持ちが見え隠れする。
「私はこの頃あなたを探して、その度に何かにぶつかって、本当の事は見えてこないし、なんだか・・・疲れたよ。もう姿を見せないでとも言いたいけれど、きっといなくなったらもっと辛いのでしょう?何となくわかっているの。私にとって、あなたは何だったの?あなたにとっての私は、どんな風に映っているの・・・。」
男は返す言葉を探すが、見つからない。男も、有架が何者なのかを考えているということを話した。有架は「そう」とだけ答え、さらに続ける。
「あのね、最初にあなたが私のところに現れた時、きっと私と関わりのある人が霊的な何かになって何かを報せに来たんだと思って、色んな人に連絡を取っていたの。親戚とか、中学校の同級生とか。久しぶりに卒業アルバムを引っ張り出してきたりしながらね。結局、あなたはその誰でもなかったね。」
「中学校の同級生で、高校に進んでから交通事故で亡くなった子がいたの。高校は別々だったし、中学校を出てから会ったり話したりしたことはなかったんだけど、同じ年の人が亡くなるっていうことが本当に衝撃的で。だからお通夜は皆で行こうって約束して行ってきたのね。皆それぞれ忙しかったから、その時久しぶりに会って小さな同窓会みたいになったの。で、誰かがせっかくなら集合写真でも撮ろうって言ってね。故人の前でこんなことしていいのかなって言ったんだけど、あいつなら良いって言うよって。申し訳ないと思いつつ撮ったの。遺影を見てやっと顔を思い出すくらいその子の記憶は薄れてしまっていたのだけれど、その時無性に泣けてきちゃって。人前で泣くことなんてほとんどなかったから、こんなに共感できるようになって、しかもまだこんなに純朴さを持っていたなんて驚いたよ。」
「と思っていたら、中学一年生の時私はその子とずっと仲が良かったんだって。すごく申し訳なく思ったし、それならお通夜の時ちゃんと話せばよかったとも思ったし。なんだか私薄情だなって。どう捉えたら良いかな?」
男は息を吐いて吸い、次のことを言った。本心を述べるような、そうあってほしいという願いをかけるような口調。
「忘れることは裏切ることじゃないよ。ましてや拒絶することでも、薄情さの現れでもない。」
「僕たちの身体は何かを取り入れて、やがて排出するね、それは精神だって同じ働きを持っているんだ。大きく見れば、僕たちが経験した一切のことは、この身体がやがて塵芥になってしまうように、忘れられていくんだ。例外は、学術研究とか天才の偉大な作品などがあるけど、それらだっていずれは消えてしまうよ。そしてだからといって、僕の中に湧き上がるもの、周囲に影響を及ぼすようなものは全て意味がないのだろうか?いや、そうじゃない。質の問題だと思っているもの、実はそれは単なる代謝速度の問題なんだ。」
「例えば、美しい景色に涙を流したとする。その景色のことは忘れても、身体の中には何らかの形で残るはずなんだ。」
「忘れること自体が問題なんじゃない。忘れた後のわたしの精神が、どんな振る舞いをするか、何を成すか、だよね。」
「うん・・・すごくそう思う。覚えることと忘れることをもっと上手く選り分けたいのだけど、それを頭の中にいる別人格が仕事をしているみたいに上手くいかないの。もちろん覚えておく努力は尊いことだけれど、忘れていくことに寛容になることも同じだけ大切なのかも知れない。」
「これは僕が一人で思い付いたことではないよ。君のことを見たり、考えたりして思い付いたんだ。僕もこの頃は、このことについてすごく悩んでいた。わたしが忘れること、それとわたしが忘れられることについて。覚えていたいことと実際に覚えていることの間に齟齬があるからこそ人は悩むのだけれど、その間に生まれる痛みや辛さの中に、大切なものがあるのかもしれない。」
「今話していて思ったことがあるよ。・・・言葉ってさ」
「うん?」
「言葉って、それがうまく受け継がれているときは、発話されたりしないと思うの。」
男は有架の言わんとしている所をつかみあぐねている。
「うーん。世の中には、というか世の中の上には、『確かなもの界』というものが、多分、あります」
「はあ」
「確かなものは、それが確かな時は、言葉にできないの。というか、言葉にしなくて大丈夫なの。」
「うん」
「その確かなものが何らかの原因で忘れられたり蔑ろにされ始めて危うくなってくると、誰かが気づいて言葉にする。『文化』とかね。でもその時にはきっと、その本質とか生命は失われかけているの。」
「そうしてなんとかこの世に留めておこうと皆頑張る。でも、やがてそれはまた忘却の中に入っていっちゃう。その瞬間にはすごく喪失感を覚えるのだけど、それは、また『確かなもの』になっただけなんだよ。だからきっと、何があっても私たちは大丈夫なの。」
「わかったような、わからないような。」
「それは多分わかっています。」
と、有架は笑う。というよりは、ずっと嬉しそうである。
「でもね。いつか、その確かなものを確かなまま捉え切ってみたいと思うよ。」
「なんだか、雲を掴むみたいな話だ。」
「そう、雲を掴んで、手放していいよ、の話。」
「思い出だって、同じことかもしれない。昔のことをあからさまに思い出そうとする時は、その思い出が失われかけている、危うい時でもあると思うのね。今の私の前にあなたが現れたということは、そういうことだと思う。私は私の思い出を、当たり前に受け継がれていくものみたいに思い出したり忘れたりした方がいいっていうこと。」
「私は本当に色んなことを忘れてきたし、忘れていた。でも忘れていたからこそ、あなたはここに来た。それがきっかけで、あの彼のことをきちんと調べたわけだし、あなたに迫ろうとしている。何もかも覚えていたら、お通夜の写真もそんな表情で写っていなかったかもしれないよ。」
「色々調べる間に、久しぶりの友達にも会ったし、この間旅行にも行ったの。色んな人と、たくさん昔のことを話して、あの時思わなかったことをたくさん考えたよ。思い出はそのままの形で残っていくのもいいんだけど、忘れることでまた新しい見方ができることもある。それもいいなって。」
「私は、これをあなたのおかげだと思うのよ。そう思いたいの。」
男は涙を流す。昔に見た夕景が思い出され、心の中で、静かに、そして静かに落日していった。それはきっと、この女と見たものだった。
夜を研ぎ澄ませる空気が、君を真に器用なように気持ちだけくっきりと攫っていって、果てはない闇夜は街灯の部分だけしんとして落ち着きを見せている。君はほんの少しだけ口を開いたように見えた、届いても届かなくても、心はそこにあって、忘れても忘れなくても、あの日はきっとあの日にある。
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