アイデンティティ覚書
高校教員です。
今年は少し仕事にも余裕があるので、以前やっていたクラス生徒向けの手紙を書いている。週1回くらいのペースで続けられたらと思っている。
以下、今週配ったものの内容です。
【現代文の授業で話したこと】
この間、現代文の授業で「大衆」と「自己」について話しました。近代という時代は、「大衆」という概念が生まれ、そして「自己」を探す旅が始まったというような話でした。「アイデンティティの危機」という問題は今を生きる私たちにも地続きの問題だ、というような結論を出してみましたが、授業の後でまた色々考えてみると、少し違った終着点にたどり着いた気がするので、ここに書いておきます。
【「自己」を消すことが「自己」の始まりかもしれない、という話】
ある評論家は、「現代に生きる私たちにとって、アイデンティティという概念自体すでに時代遅れなのかもしれない」と言いました。「自己と他者」という二項対立では片づけられない、というか、この対立を止揚(しよう)した新たな概念があるはずだ、ということです。私たちは近代という時代が設定したアイデンティティという問題を新たなフェーズで捉える必要があるわけですね。
アイデンティティの源泉として「個性」というものがありますが、自覚できて言語化できる個性は存外ちっぽけなものなのではないか、と日々考えます。私自身、30年くらいの人生経験でとらえる自己像って、そんなに信頼できるものではないのでは?と考えています。ある程度生きてきて、ようやく自分の思考の癖・行動の癖とその対処法が分かってきていますが、逆に言うとその程度です。
自分の人生の全ての可能性を全部試したのなら、ある程度正確だと言えるかもしれませんが、そんなことが出来た人間はおそらくいません。人は生きていると、どうしても「その時点での進路選択」をしなければならないわけです。何かを選べば、他のものは選べなくなります。自分が選ばなかった人生で形作られたはずの自己像もあって、それはもう全然別人(他者)とも言えるし、あり得た自分(自己)とも言えそうです。
また、「ジョハリの窓」という考え方があります。これは自分の内面を4つに区分けして分析してみようという一つの手法です。4つとは、「①自分も周りも知っている自分=開放の窓」「②自分は知っているが周りの人は知らない自分=秘密の窓」「③自分は知らないが周りの人は知っている自分=盲点の窓」「④自分も周りの人も知らない自分=未知の窓」です。人の内面的特徴はこの4つのいずれかに区分けできるわけですが、おそらくこの④の部分が、①②③に比べてかなり大きいはずなのです。
無意識の代表格である「夢(睡眠中に見るやつ)」は、私たちが起きている時にする想像をはるかに超えています。日常で出来た物事どうしの因果関係を打ち壊して、普通ではあり得ないことを見せてくれます。
また、無意識の部分はコントロールできません。無意識というものは、いわば「自己の中の他者的な部分」です。それが一番大きいとなると、「無意識こそが自己」とさえ言えるのかもしれません。
まとめてみると、「アイデンティティを形作る個性というものは、明示することも意識することもできない」。今のところ、これが本当のところだと思います。
【結局、生活をどう進めるか】
ではそのことを踏まえて、毎日の生活をどのように送るのが良いでしょうか。私は、「自分の良さはコントロールできないが、意識できる悪いところはつぶして研鑽することはできる」と信じて日々最善を尽くすしかないかなと思っています。当たり前のことですね。
「滅私(めっし)」という言葉があります。自己を極力減らして行動するということです。ともあれ、人のために動いてみる。勉強で例えると、自分が知っていることを人に教えてみる。一見すると時間を自分のために使えていないようですが、人に教えることで自分の理解が深まったり、今度は教えた人が別の教科について自分に教えをくれたりします。逆説的に、他者のために行動すればするほど、自分の可能性の範囲が広がり、やりたいことが実現できていく、という循環がありそうです。
アイデンティティを消しても、どうしてもにじみ出てきてしまうものを信じて、自分の中の嫌なところや納得いかない部分を改善しようとしてみるのはどうでしょうか(「改善してみる」ではなく、「改善しようとしてみる」というのが大事。結果ではなく姿勢、Attitudeの問題です)。ちなみに、イギリスの伝説的ロックバンドの「OASIS(すでに解散しています、復活してくれ!)」のメンバー、リアム・ギャラガーは音楽誌のインタビューで「何もせず突っ立っているのが、一番そいつの個性が出る」と言っていたのを覚えています。小学生当時の私は、近所の図書館でその発言を見て震えました。かっこいい。
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