「物語の拡散」と闘う
学校の先生をしています。
教育は、とても短く言えば「人の成長」に携わる仕事である。
成長というのは、言い換えると「ある点からある点への変化」だ。教員に求められる仕事は、この「ある点からある点への変化」を見出したり、「ある点からまだ存在しない未来の点」を提案したりすることであるだろう。「成長に関わる」ということは、「点と点を結ぶ」ということ。教員の仕事はそのように要約できると思う。
この「ある点からある点へのつながり」というのは、更に言い換えると「物語」ということができる。生徒が持っている「物語」を見出したり、これから先の「物語」の輪郭を提案したりする仕事。生徒が持つ物語をどのように見出すか、どのような言葉で提示するかというところが、教員の技量なのである。生徒が、はっとする物語。チープな言い方や、強引な結び付けではない、生徒が乗っかってこられるような「道筋のようなもの(というほどはっきりは見えないけれど)」を読み取る必要がある。その物語に沿って声掛けしたり、時には「こういうところが出来るようになったね」とか、「こういうところが気になっているんだね」とか、「こういう目標をもつと良いかもね」と伝えたりすると、それだけで顔つきが変わる(気がする)。
ただ一方で、この「物語の読み取り」に関する問題として、「技量がついて成熟してくると物語を断言できなくなる」というものがある。
「物語」は、「物事を単純化して記述する」ということであり、たくさんの現象が同時多発的に動いている中で、任意の要素を恣意的に取り出して結び付けているに過ぎない。生徒に対する観察眼や推察が鋭くなってくるにつれて、たくさんの要素を読み取ることができるようになり、「はっきりした物言い」が出来なくなるのである。自然科学の実験観察などでも、データが増えてくればその分例外や乱数が出て来る確率は上がる。それを考慮に入れながら推論し、結論を出さなければならない。人間の心理も同じで、洞察力が上がるほど、「Aはこういう性格だ」と単純に断言することは出来ず、「Aはこういう側面もある」という言い方に近づいていく。
つまり、教員の仕事は「物語を見出す仕事でありながら、技量がついてくると物語が拡散していく」という矛盾と闘わなくてはならない。その間で、どのようにバランスを取るか。そこが、本当の技量という気がする。たくさんの情報を取り入れるという前提に立ちながら、よくよく観察をして「この人はこういう成長があるのかな」という判断を、ある一定のところで下さなくてはならない。
「生徒」と括ることが無意味に思えるくらい、人はたくさんの要素を持っている。どのような側面を見出し、それぞれの側面がどのように関係しているのかを考えた上で、対話し、成長を促していくか。それが、教員の仕事の面白いところだ。
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