振り子的 動的 バランス感覚

学校の先生をしています。

終業後、ぎりぎり同世代の、同僚の先生と話し込む。
色々な話を経由して、「教員になっていなかったら、それぞれ何になっていただろう?」という話題になった。

未だに、「あ、自分はそういえば教員なんだ」という違和感を持つことがある。
普段は全く意識しないことだし、職業を聞かれたら教員であると即答できるし、教員然とした振る舞いもしているのだと思う。
しかしふと「そういえば自分は教員なんだな」とか、もっとエスカレートすると「実はもっと違う何者かになれたんじゃないか」という気持ちを持つことも事実なのである。

これは先日ここにも書いたが。
今、自分が教員という職に就き、苦しい瞬間もあるが、基本的には毎日が楽しい。それに自分の社会的役割についても納得をしている。高校生と関わり、何かが通じたと思えた瞬間には、やはりこの職に就いてよかったと思える。そうでありながら、他の何かになりたいという気持ちもないではなく、軽く板挟みになることもまた事実。
「現状を肯定すること」と「他の可能性を考えること」の間でバランスを取ることの重要さについて考える。
どういうバランスがベストだろうか?

気持ちのバランスについて今考えているのは、振り子のような「動的なバランス感覚」のイメージだ。
人の心はいつでも揺れ動く。うきうきして仕方がないという日もあれば、自分はちっぽけだという寂しさを持つ日もある。どちらかだけが続くということもないし、どちらもないということもない。その時々で、気持ちが動いて振れて、全体として見るとちゃんと振り子が機能している、健全な状態になる。これが先に述べた「動的なバランス感覚」のイメージ。
「現状の充実感」と「何者かになれるかもしれない期待」の丁度真ん中で動かない、というバランスの取り方は、ちょっと今の私にはできそうもない。それよりは、その時の素直な感情に任せて、「教員って最高の仕事」と思ってみたり、「いや、自分は文筆家を目指したほうが良いのではないか」と思ってみたり、振り子のように動きたい。左右の振れている幅が同じ、という全体をもって、「バランスが取れている」状態を保ちたい。

教員が得てしまいがちな固定概念を時に外しながら、それでも教員という社会的役割を諦めることなく、充実感を持っていくという状態が実現できるのではないか、そしてそれはとても良い状態なのではないか、と考えるのである。

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