小説「きみを わする」5
いつだったか、記憶が途切れた隙にあの海岸沿いの夢を見ていた。
それは、その季節には珍しく暖かい夕暮れのひとときで、白みを帯びた空気に海と光だけがとけあって、後に残った波の音と友人の声だけが、ただ静かに響きあっていた。
僕はどうしても、あの揺れる木のシルエットだけが気がかりで、だから、その夢のことを、景色以外は忘れてしまったのかもしれない。
僕は、全体、他人のことなど知り得るはずなどないのだ。わからないことはわからないまま進んでいくし、自分はただひたすら取り残された気がして、嫌気が差すこともできなくて。
さて、この頭痛なのだ。どう受け容れていこう。
男は今、自室の洗面所にいる。何かが見えそうな、深夜である。街灯の、本来の光は電柱や窓枠、様々に舐め取られて、蛇口や鉄骨にその一部分だけを注ぐのであった。機械のように仕事から帰ってきてすぐ、仮眠にしては長すぎるくらいに眠ってしまった。もう一眠りしてからゆっくりとして、昼過ぎにまた有架の部屋に行くのだ。息を吸っては吐いて、どうせ深く眠れないとわかっている床に就いた。
いつもの場所に着く。もうすっかりこの流れが自然となってしまった。
今回も、部屋には女の他に誰かいるようだ。有架のあのたおやかな透き抜ける声の他に、低い男の声が聞こえる。そしてその声は、口論をしているようにも聞こえた。
部屋に入ると、外で予想した通りの状況であった。有架と、知らない男とが口論している。
知らない男は有架の父親のようであった。
「だから何度言ったらわかるんだ。有架、家に戻ってくればいい。それだけなんだ。母さんも、福井の家も皆心配しているんだよ。」
「だから嫌だって言っているじゃない。何度言ったらわかるの?」
どうやら男が来るより前からずっと、話が平行線を続けているらしかった。
「いいか、有架。有架は俺たちのたったひとりの娘なんだ。その娘が何か悩んでいるのなら心配するのは当たり前だし、その原因がこの部屋にあるのなら、家に迎え入れようとするのが普通の態度だ。そうだろう?」
「お父さんの言っている普通っていうのがわからないよ。こういう時だけ父親の感じを出されても困る。大体、普通の家族っていうのも私にはわからない。おかしなことばっかりしているくせに、こういう時だけなんなのよ?」
語調が強くなってくる。有架はシャツのボタンを気にしている。父親はそれに気づかないのか、何も指摘しなかった。
「普通というのは、普通だ。理屈とかではなく、俺が有架を心配に思っているんだ。感情は否定できない。とにかく、戻って来なさい」
「じゃあ私だって同じ。あの人が何なのか、気になっている。それは否定できないんだよ。お父さんはその大事な娘のことを何もわかっていないよ」
日が沈みかけ、外は少しずつ暗くなっているが、部屋の中はまだ灯りをつけなくて良い頃合いである。それだから灯りをつけないのか、話し合いに集中しきっているがためにタイミングを逸しているのかはわからない。外の様子を見る余裕があるのは、この部屋の中では男だけのようである。
我が娘と微妙な距離を保ちつつも正面から向き合う父は何か言いたげな顔をしている。父親だというこの男は五十代前半といった容貌だ。自分自身のことについては長年のこと、よくわかっているのだろうが、それを何もかも全て話すには勇敢さを失ってしまった、微妙すぎる年齢のように見える。もう少し若ければ、あるいはもう少し年老いていれば、このような苦々しい顔はしていないだろう。
少しの時間が経った。さらに部屋は暗くなる。暗転した舞台のようにも見える。その影の感じを吸って、父はその重い口を開いた。その様子は、何か自身の犯行をいよいよ供述しようとする証言者のようだった。それを観ている男、傍聴者であり、共犯者のような心持ちがする。
「絵だ」
「え?」
「私は絵を描いていた。有架が生まれるずっと前、母さんと出会う少し前のことだ。田舎から東京に出て大学に入った。独学だったが、それで食べていこうとしたくらいだ。
私が描いていたのは大きな絵だった。この部屋に収まらないくらい大きな絵を描きたかった。今となっては、厳格な父親を気取っているつもりだが、あの時はあれが全てで、学校に行かずに部屋にこもっていることだってあったんだ。
でもある時、そうもしていられなくなった。私の父が、つまり有架のおじいさんにあたる人が死んだのだ。決まった仕事に就いて、自分で暮らさなければならなくなった。」
「私には二つの道があった。一つはそのまま東京に残って絵を描きながらかろうじて食いつなぐこと、もう一つは実家に帰って、そこで仕事を探すこと。不思議と実家に帰って絵を描くという選択肢は自分の中になかった。帰ってしまったらきっと絵と自分の関係性が変わってしまうだろうと。私は絵を描きながら考えた。途端に、思う線が引けなくなった。もう選択の余地はある時からなくなっていたのかもしれないと思った。
それが明確にわかってしまったのは、冬の寒い時だった。夜に、ふと自分の絵を燃やしてしまった。何かに引っ張られるように絵を抱えて河原まで行き、燃やした。画材も、一切合切だ。今でも、あの時の火を覚えている。決定的な何かが終わってしまったような、致命的な何かのエネルギーが始まったような心地がした。小さな火が束になったり絡まったりして、混沌としたような、神聖なような光景だった。実際、もうそこから今まで絵を描いていない。実家に帰って、母さんと出会って、有架が生まれて、俺はとても幸せだった。今も幸せだと思っている。」
「そうだ、そうなんだよ」
父親は何かに気づいた様子だった。落ち着いた父親の語気が再び熱を帯びてくる。
「何かひとつのことを続けるのは尊いことだ。でもそれは絶対のことじゃない。退いたり、立ち止まったりして、人は進んでいくんだ。その時にどんな方向に進んでいるかということと、人生全体として進んでいるかどうかということは、少し違うんだ」
父親はもともと、親として家族として有架を呼び寄せようとしていた。はからずも自分の過去を話すことで、最初の時とはまた違う毛色の熱量をもって、有架を説こうとしている。
「でも」
有架はやはり引っ張られるように、呼応する。
「でも私は、戻ってしまったら、何かに戻ってこられなくなる気がする。何よりあの人のことが何もわからないまま、離れてしまうし」
「あの人って、幽霊なんだろう?」
父が訂正をしようとするが、有架は無視する。
「そうしたら、もう何も思い出せなくなるかもしれない。そんなの嫌だよ」
「嫌だといっても、そんなぼんやりしたものを相手取らなくたっていいだろう
。そんなものより家の方が確かだ。」父親は反論する。
「確かなものだけが、確かなものにたどり着くのに必要だとは思わないよ。今大事にしているものがなくなる、あの人が何なのかわからないままここは出られない」
「何を言っているんだ?有架が今大事にしているもの、それこそが過去に他ならないんじゃないか?」
男はふいに有架と目が合う。窓越しでも画面越しでもなく、直接目が合うように感じたのは初めてだった。有架はすぐに電気をつけて携帯電話を取り出し、男のいる方向を見定めた。
「どうしたんだ、急に」
「彼が見えた気がしたの。そしたらやっぱり来ていたみたい。いつからだろう」
父親はいぶかしがりながらも有架に近づき、携帯電話の画面越しに男の方向を覗く。
「何も見えない」
「それはそうだと思うよ。友達の中でも、ずっと一緒だった子しか見えなかった。しかもそれも、私が見ているよりぼんやりと。お父さんには見えないはずだよ。」
「そうか・・・。」
父親はなんとも言えない表情を作った。
「とにかく、それが見えなくってもお前の父親はひとりしかいないんだ。どうあがいたって、もし戸籍上別のものになったり、勘当して精神的に離れたりしても、この事実は変わることがないんだ。迷惑なのはわかっている。それでもこれが私の愛情だ。わかってくれよ。」
また来るからと告げ、父親は帰っていった。有架はひどく疲れた顔をして、ベッドにへたりこんだ。もう来てくれるな、という顔にも見える。
その様子を見るでもなく見ていると、しばらくして有架はゆっくりと口を開いた。
「あなた、まだ消えてくれないでね」
と、有架は空間に向かって話しかける。私がまだここにいるということを感じているのだろうか。いなくたって構わない、というような優しい表情だった。やがて有架は眠りについた。
男は無性に、自分の存在が危ういものなのではないかと感じた。それも、有架と出会う前に感じていたような、ある種自虐的な、自嘲的な、心地よいような自己否定の感じではなく、ニュートラルに、しかし本気でそう思ってしまった。
有架の部屋を出て、かなり歩いた。何かいつもと違うことをしてからでないと、自分が消えてしまいそうな、もしくは家についたら自分の部屋が跡形もなく消え去っていそうな心持ちがしたのだ。やがて、近所(と言っても、男は普段足を踏み入れない地区)の小学校の校庭で季節外れの縁日が開かれていた。男はふらりと入っていった。
校内はたくさんの人で賑わっている。ぶつからないように注意深く歩いた。当然のことながら、男を知っている人も、男が知っている人も誰もいない。この賑わう人だかりの中で、自分ひとり浮遊したようだった。自分の姿に影があることさえわかればなんとかなったのだが・・・確認するのが怖かった。
ふと、すれ違う少女と一瞬目が合ったような気がした。勘違いかもしれない。それでも、この時の男にとってはこの事実こそが命綱だった。
設営されているステージでは、何かの音楽を演奏している。機材の能力を遥かに越えるような音量に設定しているのか、演奏の音よりもノイズの方が大きい。演者たちはそれを何とか抑えようとしてみるが、どうにもなることもできない。
耳を裂くようなフィードバックの音が美しく聞こえるのは何故だろう。そこに必要のない、本当は、うまくいっていれば、あるはずのない音が鳴っているからか。電気信号と空気振動の変換を繰り返し続ける中に、永遠性を確かめたくなるからか。
ここは0地点、一周してからそこを後にした。提灯の暖色、古ぼけたビル群。その寂しさを受け止めながら、男の背中はいつもより小さく、ろうそくの火のように揺らめいて見えた。
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