働くこと、他者を見つけること
学校の教員です。
最近は仕事が難しく、やるせない気持ちを抱えることも多いです。そんな中、ほんの一瞬、息を吸える感覚があって、それで生きているなと感じます。そんなことを少し文章にし、日記として生徒に公開してみました。ここにも録しておきます。
今日のホームルームでは「学校愛クイズ」をやった。盛り上がってくれて有難く、また自分も楽しかった。
だいぶふざけたニュアンスで色々と喋ってしまったが、言ったことの内容は本当で、学校の変な仕組みを批判したり、教員の変なところを馬鹿にしたりするのは良い(凹むけど)が、自分が所属する学校自体のことや、同級生たちのことは、大切に考える方が、最終的には自分を大切にすることにつながるのだと思う。「他者のため」は、巡り巡って「自己のため」になるような気がする。
たまに、「自分はなぜ働いているのだろう」と自問自答することがある。ぼーっとプリントをコピーしたり、休み時間の教室で、皆を眺めたりする時なんかに、考える。
皆も、今勉強していることが、ゆるやかに数年後の何かになっていくという感触を感じているかもしれない。その先には、大学や短大や専門学校があり、そして、多くの人は就職につながる。就職先を探す中で、途中行き詰まったりしながら、この「なぜ働くのか問題」が、実感とともに頭をもたげてくるはずだ。
人はなぜ働くのだろう。私は、今の所こう考える。多分人は、100%自分のためだけに生きていくことが無理だからだ。
「うわ、道徳みたいな話かよ」と思う人はちょっと待ってほしい。そんなに高尚な話ではない。だって、完全に自分のためだけに生きるって、めちゃくちゃ苦しいのだ。私は、生存権がある程度保証されていて、「自分のために生きていいですよ」と言われたら、多分何もせずに部屋でずっとだらだら過ごして、スライムみたいに不定形な状態のまま人生を終える自信がある。
今、私は古典と現代文の勉強をずっとしている。それは、「自分のため」というモチベーションでは全くない(もちろん巡り巡って自分のためにはなるのだが、そのつもりでやってはいない)。で、それは、「生徒の進路実現!」とか理想的なモチベーションでもなく「明日の皆が自分の話でつまんなそうにしていたら嫌だな」という、極めて即物的なものなのだ。それが、この6年ずっと続いている。それがなければ、私は仕事を続けてこられなかったと思う。MURI。
多分、他人がいなければ、私はスライムのままで、人間の形を維持できないのだと思う。今日、人数分買って皆で食べたドーナツだって、自分ひとりのためだけに(良い寿司を食べるなどして)数千円使うより、皆にああいう形でぱーっと使ったほうが、よっぽど痛快だと思ったからだ。自分のためだけに、生きていけないからだ。
だから。
私は、そういう他者を見つけることができてよかったと思う。
そんなことを改めて思った今日だった。
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