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和歌は「修辞上の多重露光」という話

 学校の先生をしています。

 今、高校一年生の国語の授業は『伊勢物語』。その中の「筒井筒」という章段を読解している。
 『伊勢物語』は「歌物語」というジャンルで、物語の途中で登場人物が和歌を詠む。そして、その和歌が物語において重要な位置を占めるのである。
歌の力、というと大げさかもしれないが、和歌によって人の心情や行動が変化していく様子が描かれ、読者はそれを追っていく。
 和歌は、31文字で内容を完結させなければならないため、詠み手は様々な技巧を用いて表現を凝らす。一度読んだだけでは意味が十全に理解できないことも多く、ゆえに高校生を悩ませるものの一つとなっている。分かりやすく、かつ野暮ったい説明にならないようにするのが、授業者の腕の見せ所だ、と個人的には思う。

 「筒井筒」のあらすじはこうだ。
 幼馴染の男女が大人になり、和歌の贈答を通して心を通わせ、ついに結ばれる。そしてその後、経済的な事情から男は別の女のもとに通い始めることとなってしまう。そのことを咎めもしないもとの女に対して男は、「女も浮気をしているのではないか?」と疑い、外に出かけたふりをして自宅の庭に隠れ、もとの女の様子を盗み見る。そこで女がぼんやり外を眺めながら和歌を詠むのである。

風吹けば 沖つ白波 たつた山 夜半にや君が ひとり越ゆらむ

 直訳すると、大体こうだ(これがすでに野暮ったい・・・)。「沖に白波が立つほど強い風が吹いている。そのような夜、今頃君は一人で竜田山を越えているのだろうか」男のことを思った一首だ。
 「たつた山」という言葉を介して、二つの情景が描写されていることを確認したい。まずは前半部分、「風が吹けば沖の白波が立つ」という情景。そして後半部分には、「風が吹く中ひとりで山を越えている(であろう)男」が描写されている。
 よくある解説の一つとして、「風吹けば沖つ白波」というフレーズは「たつ」を導く序詞だ、というものがある。序詞とは、特定の語を導くための決まり文句のようなものであり、和歌のルールの一つであるらしい。教科書にもそのことが注釈されており、それを見て、この和歌の技法をなんとなく分かった気になってしまう。しかし私は、この歌の魅力が「ルールだから」で片づけられるものではないのではないか、と思うのである。

 カメラの技法で「多重露光」というものがある。これは、一枚の写真に複数回露光をすることで、影の中に別の写真の光が紛れ込み、独特の質感を生み出すという技法である。何を被写体にしたのかが曖昧になることで、むしろ表現したいものが見えてくる、そんな撮影方法にも思える。

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 「風吹けば~」の歌を見てみると、現実ではあり得ない、「波が立つ描写」と「山の中の描写」とが一つのフレーズの中に納まっている。これは和歌が、「レトリック上の多重露光」を起こしているということなのではないだろうか。視点が定まらないからこそ見えてくる、この歌の複線的な、重層的な世界観。それが、和歌の魅力の一つなのではないか、と思うのである。

 授業中、「百人一首も面白いから、いつか夜に動画か何かでライブ配信でもしようかな」と冗談交じりに言った。その直後の休み時間、「インスタライブしてください」と言われた。少し本気で計画してみようかな、と今考えている。

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