「必要ない」ものへの目線
学校の先生をしています。
授業をしていると、「どうして漢文を勉強するんですか?」という素朴な疑問をもらうことがある。まあその気持ちはとてもわかるよ、と言い添えつつ、その時々に考えていることを話したりする。
確かに、将来使いそうもないことを勉強するのは、意味のないことのような気がする。と同時に、「将来使いそうなこと」だけ勉強するのも、それって面白いかなあ、と思うのである。
最近考えているのは、「トッププロの実力は、競技人口に比例する」ということ。
スポーツでは、競技人口が増えれば増えるほど、その競技に向いている人が集まる可能性が高くなる(まあそれは当たり前のことだ)。今日本で話題になっているラグビーも、今回のワールドカップの快進撃に憧れて競技者が増え、文化を作り、さらなるブレイクスルーが起こる可能性が出てきた。
たまに、ものすごい天才が現れて、その法則を崩すような気もするのだが、それですらも、人口が多い方が可能性は高まるはずである。
漢文の授業は、多くの人にとって退屈なもの。しかしクラスの中に、もしかすると漢文の世界の門を叩く人が現れて、大学で漢文を学び、新たな漢文の可能性を押し広げるかもしれない。それは巡り巡って、私たちの実生活に影響を及ぼすかもしれないし、及ぼさないかもしれない。それは、分からない。しかし、その分からない可能性のために労力を費やすことは、悪いことではないと私は思う。というかそれが、大学というものの存在理由であるとすら思う。
その、あるかもしれない可能性をなるべく大きく保っておくために、授業で漢文や古文、小説の授業が行われるのだろう。
「恋愛学」や「心理学」や「経営学」など、すぐに役立ちそうな人気の勉強は放っておいても生き残っていける(いやそれらも本当は、突き詰めていくと基礎研究みたいになって、すぐに役立つかわからない次元まで押しあがっていくのだろうが)。
そうではない「一見何の役にも立たなそうなもの」について伝えていくというのが、公教育の担うところなのではないかな、と今考えているのである。
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