小説「きみを わする」10

 まどろみの中で初めて有架に会うためのチケットを手に取ってから、随分経つ。実際の年月以上に、前に起きた出来事のように感じる。やがてこのことも、夢を見た後の朝日の静かさ、自分の吐息とともに、全部忘れてしまうのかもしれない。十枚あったチケットも、これで最後の一枚だ。時は夕方。

 「あら、いるのね。」
 有架はもはやこちらを見ていない。気配だけでわかるのだろうか。
 あなたやあなたにまつわることをなるべく理解しようとしたんだよ。一晩だけ、たくさん話したりもしたね。そんな夜を経ても、結局あなたを完全に理解するのは無理だった。
 それでね、私気づいた。あなたも私も、多分同じ。あなたは私が忘れていった「ものの気配」なんだって。

 昔は何かだったような建物達の影は夜の訪れに息を潜め、東の空から引っ張ってきたカーテンは西の空に燃え尽きていくのが見える。

 今日は夕立だったよ。悲しいけど、優しい雨だった。
 私、わかったことがあるよ。求めていたのは、この穴だったのかもしれないって。そこに今は、心のあなたの声がそっと注ぎ込んでくる。空いているからこそ、私の奥まで入って、そして抜けて行くの。私は今、それを愛おしく思うよ。
 女はシャツのボタンを気にかけたが手は触れずにしまった。その影は炎と解け合っていき、窓辺に漂う女のシルエットも後ろのガラスを水にして泳ぎ始めた。時と空間が混じっては、心の中にあるものが洗い流され、また新たな生命が燃え寄せる音を感じる。

 そういえば、まともに演技を見せていなかったね。
 無邪気に彼女は笑う。
 彼女は静かに踊り始めた。静寂を音楽に、わずかな明かりはスポットライトに。円運動をモチーフにした舞いはそこに波を起こすかのように伝わる。消えていきそうなほど白い肌に筋肉の隆起が見え、このワンルームに生の躍動や死の寂寞が凝縮してしまった。見えるもの、消えゆくものが解け合っていった。
 いったい私は、私を演じているのだろう。そしてその中から何かが軌跡となり、放物線を描く。それはまた別の放物線と交わり、消えてゆく。その集積を皆愛し、疎ましくも思った。

 踊り終えた女は、消えゆくような細い声で、しかも決意めく落ち着きで、言う。
 「もう私はあなたを忘れません。それと全く同じように、もうあなたに私はいりません。」

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