知ることと感動の良い関係性
学校の先生をしています。
よく、「十代で得た感動を二十代で感じたければ、そのn倍のお金がかかる(nは任意の自然数のことが多い)」ということが言われる。「年齢と感動とお金」の関係は、年齢が上がるほど、感動の閾値は上がっていき、感動を得るためにお金がかかる、というものだ。
例えば、食べ物。
「舌が肥える」とはよく言ったもので、おいしいものを食べるという経験をすればするほど、それを越える感動を味わうにはさらなるお金が必要になる。さらに高級なものへと志向していく。
それでいて、十代の頃の「冬の帰り道にコンビニで買って友達と分けた肉まんの味」が恋しくなったりするのである。いや、今でもコンビニの肉まんはおいしいのだが。
あの時の肉まんの感動は、何ものにも代えがたかったという気がしてくる。
しかし、「学ぶこと、気づくことの感動」はどうだろう?これはむしろ、年齢が上がるほどそのハードルは下がっていくような気がする。
今、「自分が学び続けることが仕事になる職業」に就いていて思うことは、高校生の時には気にならなかった差異が、とても大きなものに見えるようになってきたということだ。
小説を読む。作者の作為(心情ではなく)について考えるのが、今とても楽しい。高校生当時、それをあまり面白いと思えなかった。当時は「作者の考えていることが分かっても、それが何の役に立つの?」という思考をしていた(とても狭い了見だったと思う)。
その捉え方が、自分なりに色々経験して、勉強して、変わってきた。純粋に新しく何かに気付くこと自体が面白いというマインドセットになってきた。これはやはりある程度の年数生きてきて、少しは思考の射程距離や時間意識が長くなってきたということと無関係ではないと思う。
そして、逆説的ではあるが、気付くこと自体が面白いとなってくるとその感動は実生活にも生きてくる。小説で描かれている(であろう)問題意識が、実社会を批判的に捉えるため視座を与えてくれたり、自らの世界観を更新してくれたりする。
「役に立つこと探し」をしていた高校生当時は、理解できることの幅も少なく、問題に向き合う力もなく、学ぶことの感動を感じにくかった。それが今、随分と変わってきたと感じる。このまま、「知ることと感動すること」の良い関係を保っていきたいものである。
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