「こちらコーヒーになります」考

学校の先生をしています。

国語教員という職業柄…なのかは分からないが、周りの人の言葉遣いが気になる。
冗談みたいなところだと、「こちらコーヒーになります」とか。「これは今まだコーヒーではないのか…?」と、心の中でわざとらしく驚いてみせる。「いや、今すでにコーヒーのように見えるけど…」とか、そんなことをつぶやく。
教室でも、「ロッカー取ってきていいですか?」と言われ、「うん、重いから気を付けて…」などと返す。「ロッカーの中にあるテキストを取ってきていいか」を聞いてきているのは分かっているのだが、冗談めかして答える。
多分、自分だって、きっとこういう面白い言葉遣いをしているのだとは思う(実際私は40人くらいの前で話す時には「ちょっと」と言う回数が相当多いらしい)。それでも人のそういうフレーズは、すぐ発見してしまう。
さらに言うと、「正しい日本語」なんてないし、伝わるべき情報は伝わっているし、だから気にしなくていいじゃないか、とも思う。そう思いつつも、言葉の端、細かいところに気づく。そのたび、言葉って面白いよな、と思うのである。そう、「言葉の乱れが…」とかではなく、ただただ面白い。

もうちょっと真面目なことも書いておく。
日常生活やSNS上で普通にコミュニケーションを取っている中でも、個々人のバックボーンによって、同じ言葉に込めた意味内容が全然違う、ということにも気がつく。
例えば「真実」という言葉。この言葉の意味は簡単なようでいて、実はかなり重層的だということが実感として分かってきた。
自分としては、この「真実」という言葉は、「誰も疑いようのない絶対的な正解」というほどの意味だと思っていて、またそんなものはほとんどない、とも思っていた。
しかし、他の人は「真実」という言葉を「また別の嘘」という意味で使ったりするし、またある人は「真実」を「幸せへの祈り」だと捉えていたりする。当然、この両者がコミュニケーションを取るとなると、相当な苦労を強いられる。同じ言葉がそれぞれ違う意味に聞こえるのだから、それは当然のことだ。
どんな言語環境にいたかで、言葉遣いは相当に変わってくる。私たちは、それぞれが使っている日本語というものを全く同一のものと認識しているけれど、地域や世代によって微妙に違う言葉を使い分けているし、究極的には、個々人に固有の言語があって、類似箇所を見てそれを「日本語」と呼んでいるに過ぎない。そのことに自覚的になっていると、議論や対話の場で戸惑うことは減るかなと思うのである。
そして同時に、これを踏まえて「どんな言葉遣いをしていきたいか」も考えてみると、思考や振る舞いを変えるきっかけにもなるのではないだろうか。

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