小説「きみを わする」6
今日はよく雨が降っている。昼間にしては外は暗く、重く、それが、部屋にも差し込んで来る。有架の心象風景のようであり、巨大な舞台装置のように機能した。
有架がさっきからずっと泣いている。理由はわからない。でも男にはわかるような気がした。いつも私達は、わかることとわからないこととの間で揺れ、彷徨う。砂漠にいる老人の風景。海で遭難する若者。ここには僕がいる。
有架はさっきからベッドの上で、こちらに背中を向けたまま泣き止まない。動き出す気配もなく、携帯電話も充電ケーブルが差されたまま床に無造作に置いておかれている。いつもより近くで、その様子を眺められそうだった。この部屋の空気を変えてしまわないように、ベッドサイドまで移動する。近くで見た有架は、やはり華奢で、やはり短めの髪が綺麗で、やはり首筋は白い。取り立てて新しい発見はなく、前に見た印象そのままだった。何かいつもと違う発見ができれば、気持ちとして納得できたのかもしれない。しかしここにいるのは、数回見たり見ていない時でも思い浮かべたりしている、あのままの彼女だった。その事実が男の人生に何の感銘を与えるだろう。男はその、物理的に接近してみても二人の関係性が何ら変わることがないという事実と、「近づけば何か変わるかもしれない」という自分自身の浅はかさとに悲しくなった。
男はこの時初めて有架に触れてみようと思った。いや、そう思ったのは幾度かあったのかもしれない。実際に行動に移してみようと思ったのは少なくとも初めてだ。この女には、男の姿は見えない。だがこの感触は、温度は、質量は感じてくれるのだろうか。
薄くブランケットに隠れたおそらく肩に左手を置いてみる。何かが壊れてしまわぬように、注意深く手を近づけていった。外ではまた1つ、風が吹いた。風は街を覆い、電柱と電柱、路地と路地や人達の隙間に入り込む。街の中で行われる会話や、この部屋にある心の中にも吹き込み、男の手はとっさに離れそうになった。接続の途切れた世界のチャンネルを繋ぐように、感触を求める。手は離れない。それではこの精神は。風のために離れないことを祈った。
どう話しかけたら良いだろう。この世界の淋しき静寂を、僕の声が破ってよいのだろうか。懸命に隙間を見つけ、やっと話しかける。
「・・・泣いてるの」
「・・・」
「僕のせい」
男は自分を卑下するつもりも、ましてや誇示するつもりもない。
「僕は君の親友でも、恋人でも、おばあさんでもない。何でもないんだ。だからこそ色々想像させてしまって、投影させてしまって、ごめん」
「本当にたった短い瞬間の交わりだけれど、君の生活を覗いて来た。君のことやこの劇のことを理解しようと必死で、でも全然わからなかった。」
「それは君も同じ?」
「いや、君には僕が見えないや」
心には影と、そして光とが見える。男の声は、先程から震えている。
「僕の声は、聞こえているかな」
「届いているかな」
外は相変わらず雨が降っている。止む気配はないくせに、向こうの空はほの明るくなった。晴れている日にはきっと暗く重い霧色のグレーも、今日なら許せる色に見える。
伝わったかはわからない。有架はまだ泣き止まない。ブランケット越しに感じる震えは治まってきたようにも感じるし、その震えは自分のものであったかもしれないと後で思えるほどには男の気持ちも落ち着いてきた。しかし男の中には何かが押し寄せてきてしまいそうで、男は帰ることにした。部屋を出ると、有架の部屋の隣人家族の所有物であろう、あの先がつぶれた黄色い傘はなくなっていた。きっとどこかで子どもが、その明るさを讃えるように雨の中を進んでいる。その荒唐無稽さと、それだけに、子どもに固有の力強さを思った。有架の涙を目にしたあと初めて、男は微笑む。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?