学校と世間と(水面を見つめ続けて)
学校の先生をしています。
随分前のことになってしまうのだが、高校の時の先輩が今年度教員になり、3か月ほどの仕事を終えた報告会に出席した。
その先輩はずっと「いつかは教員を」と思いながら企業勤めをしていたのだが、いよいよ本格的に教員へ転身を果たしたのだった。直接会うのはかなり久しぶりで、それだけでも、参加してよかったと、会が始まる前から思えた。
私は、大学を卒業してすぐに教員になった。企業というものを経験せずに、学校現場に入っていった人間である(自分でもまさかこうなるとは、大学に入る時には思ってもみなかった)。とりあえず目の前の仕事をどうにかする、という時期を過ぎ、少しずつ自分の仕事を対象化してじっくり眺めてみたいという気持ちが、この会に足を向かせたと自分で思う。
「学校はブラックだ」と言われることが多いけれど、本当にそうなのか?と、ここ数年思っている。自分としては、割と自分が好きなことをして毎月お金がもらえるので、こんな仕事でいいのかなあ…と思っているくらいなので、余計に。それに、周りの企業勤めの友人の話を聞くにつけ、そっちのほうがよっぽど大変そうじゃないか、とも思うのである。そんな中、まさにぴったりな話題だった。
会全体は、企業勤めから学校現場に入ったという3人が主に話し、それを聞いた上で、意見交換をするという流れだった。そして、話は面白い横道にそれながらも、メインとなっていたのはやはり「学校は、そして教員は世間から離れてしまっているのか?」だった。
結論から言うと、「学校と企業との間のギャップは感じない」と、先輩。
曰く、企業であろうが学校であろうが、「すでにある指針を参考にしつつ周りを巻き込んでバランスよく進めていく」必要があるので、そこは変わらないのだそうである。確かに、多少の仕事内容の差はあれど、人と人が関わる仕事である限り、そこは変わらないということだ。
話を聞き、私は安心するとともに少しうろたえた。なんだか不思議な気分になった。その気持ちにどう折り合いをつけたら良いかわからずに、時間が経ってしまっている。それが、今の正直なところだ。
安心と狼狽。これは何だろう?と考えてしまう。「今までの仕事は間違っていないよ」と自分を安心させたい思いと、「本当にそれでいいのか?」という思いが交差し、重なり、一つの気持ちとなって心に現れている。
思うに、「答えを見つけながらそれを疑い続ける」という当たり前の繰り返しの中で、自分の仕事の自己評価をつけようとし、腰を据えかねているのだろう。
最近、「健全な自己批判」を持ち続けることの重要さについて考えている。答えは常に、水のように流動的で、写真みたいに一瞬を切り取ったとしても、次の瞬間には別の形になってしまうのである。同じ答えの形は二度とないのであれば、過去の成功体験に固執することはどれだけ重要なのだろう。あまり重要でないばかりか、危険性すら伴うだろう。
常に自分を相対化する。答えを見つけながら、捨てていく。答えがあるのは安心だ。しかしそれは同時に、堕落の入り口なのかもしれない。答えを捨て、探し続けるのは労力がいるし、ストレスにもなる。しかしそれをやめてしまったら?考えるのはちょっと怖い。
…結局、教員は世間知らずなのだろうか。学校と社会との間には、ギャップがあるのだろうか。
そもそも「世間」とは、そして「社会」とは何か、考えなければならないと今は思っている。
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