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【紹介】浦島太郎について(2)

前回、浦島太郎の話をまったくしなかったので、それも少し書いておきたい。


子供のころから、
「いったい浦島太郎の話って、なにが言いたいの?」
とずっと思っていた。

例えば桃太郎なら鬼を成敗するという名目があり(その名目にうさん臭さを感じるかどうかは別として)、一寸法師、金太郎など、有名な昔話には必ずヒーローが出てくる。
ところが浦島太郎は「普通の人」である。
金太郎のように力持ちとか、一寸法師のように小さいけど強い、などのような特徴は、なに一つない。
あえて言えば、いじめられた亀を助けようとした「優しい心の持ち主」ということくらいである。
しかしながら、その優しい心の持ち主も、ひとたび竜宮城に行けば、遊び癖がつき、何日も竜宮城で遊び惚けてしまう。
挙句の果てには、「開けてはいけない」とさんざん念を押されたにもかかわらず、玉手箱を開け、お爺さんになってしまう。
はっきり言って、どうしようもない男である。クズである。
なぜこのような男が有名な昔話の一つにならなければならないのかと、ずっと疑問に思っていた。

ところが高校生になり、相対性理論の本(著名は忘れた)を読んでいたときに、はたと気づいた。
浦島は竜宮城にいたのではなく、竜宮城に似た準光速ロケットに乗っていたのではないか、と。
浦島が準光速ロケットに乗っていたとすれば、ロケット内と地球での時間の進み方は全然違う。だから地球に戻ってきたときには、かなりの時間が過ぎていたことになる。
そこまで考えて、私は慄然とした。
いまからずっと前に、準光速ロケットに乗った異星人が地球を訪れ、浦島太郎のモデルになる人物をさらったのちに地球に戻した。ところが浦島だけ時間の進みが遅く、戻ってきたら、地球では時間が何十年も過ぎていた。そして浦島から話を聞いた人間が「浦島太郎」を書いた。
つまり、浦島太郎の話は現実に起こった話ではないかと考えたのだ。
そう考えてみると、「浦島太郎」の話は単なる「ダメ人間」の話ではなく、宇宙人にさらわれた「被害者」という全然別の見方もできるわけである。
当時は自分の考えに興奮し、すごい発見をしたように思っていたが、のちになり、SF作家が何人も同じようなことを小説に書いていることを知り、がっかりした記憶がある。

大人になり、浦島太郎の話が、御伽草子(江戸時代の御伽文庫)をベースに作られていることを知った。
そしてその中では、
「太郎は鶴になり蓬莱山へ向かって飛び去った。同時に乙姫も亀になって蓬莱山へ向かった。丹後では太郎と乙姫は夫婦の明神となって祀られた」
となっている。
なんだ、ハッピーエンドではないか。
現代の話は大正から昭和に作られた話ということなので、あくまで推測でしかないが、約束を破ると悪いことが起こるという教訓を入れたのではないだろうか。

結末やその意図については納得したが、「不均等な時間の経過」については、なぜ昔の人がこのような突拍子のない話を思いついたのか、私の中ではまったく解決がついていない。
ちなみに、浦島太郎と似たような民話は世界中に存在する。

たとえば、吸血鬼ドラキュラの舞台となったトランシルバニア(ルーマニア)にも同じような民話がある。
トランシルバニア・クロンシュタットの神学生が、日曜日に行う説教の練習をするために、学友たちと離れ、静かな山の中に入った。歩きながら夢中になって説教を考えているうちに、彼は山の中深く踏み込んでいった。彼の前に一羽の美しい鳥が飛んできたので、その鳥を追っていると、いままで話にも聞いたことがないような見知らぬ洞窟に来た。彼はその洞窟でひとりの小人に出会う。小人が彼に素晴らしい宝を見せてくれたので、神学生は洞窟でしばらく暮らしたあと、村に帰った。
村に戻ってみると、彼を知っている人間がだれもいない。いろいろと聞いて回ると、彼が小人の洞窟で過ごしているあいだ、外の世界では実に一世紀もの時間が経過していたことが判明する。
百年前、彼が帰ってこなかったとき、村は大騒ぎになったという。神学生の行方はわからず、死んだとばかり思われていた、と村人たちは言った。
神学生はずっとなにも食べていなかったので、ひどくお腹がすいてきた。彼は村人にスープを一杯ご馳走になった。
彼がスープを一口飲むや否や、一世紀経っても青年のままだった神学生は、みるみるうちに年老いてしまったというのだ。

また、中国にも似たような話がある。
ある男が山に木を切りに行くと、二人の仙人が一本の大きな木の下で囲碁を打っている。興味があったので、男は斧を傍らに置き、勝負の成り行きを見物することにした。
仙人が碁を打っているあいだ、周りの木の葉がめまぐるしく色づいて散り、また緑色に芽吹くのを何度となく繰り返した。不思議なこともあるものだと思ったが、あまり気にもとめず、男は囲碁を見ていた。
二人の勝負が終わり、男も仕事に戻ろうと、脇に置いた斧を取ろうとすると、斧の柄はすっかり腐りはてていた。彼が家に帰ると、何十年も経過していた。
木の葉が散ったり芽吹いていたりしていたのは、実は男の属する世界での一年の季節の経過を表していたのだ。

日本と中国は古来より関係が深く、交流も盛んだったので、どちらかの話が伝わって、さまざまなバリエーションに変化した可能性はある。
しかし、トランシルバニアにまでこういった物語が伝わっていたとは、考えにくい。

つまり、東洋とヨーロッパで、ほぼ同じような時間を巡る話が、それぞれ独自に生まれたことになるのだ。
この事実を鑑みると、私が高校時代に考えた「準光速ロケットに乗った異星人が地球を訪れ、人間をさらったのちに地球に戻した」という話は俄然信憑性を帯びてくる。
この宇宙のどこかに、はるかに人間より高度な文明を持った宇宙人がいるのではないか。そしてその宇宙人はときおり地球に現れて、人間を観察しているのではないか、と。

翻ってみると、「浦島太郎」の話は、単なる教訓じみた話ではなく、古代人より未来の人間に発せられた「警告」ではないか、とも考えられるわけである。
そこまで考えてみると、「浦島太郎」の話は単なるダメ人間の物語ではなくなり、桃太郎や金太郎などの陳腐な話とは比較にならないほど、輝きを増してくるのである。

恐るべし、浦島太郎。


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