抵抗を失った飛行機の旅。
予め言っておくが、航空力学の話ではないし、重大インシデントの話でもない。
物理で赤点ギリギリだった私に語れることなんてたかが知れている。
航空事故については、その昔Wikipediaを読み漁ったが、そんな知識をひけらかす場なんて存在しなくていい。
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飛行機を使う旅を嫌って、20年が経った。
あんな鉄の塊が空を飛べるはずがないと思っているから、嫌いなのだ。
幼い頃、祖父母の家に行くために飛行機に乗るのが嫌だった。
祖父母には会いたい。でも飛行機は乗りたくない。
ジレンマの間をうろうろしているうちに、いつも飛行機は目的地に着いていた。
祖父母も、一緒にいた母や兄や弟も、多分このことは知らない。
国内ならまだ我慢できる。でも、海外は流石にそうもいかない。
とりあえず眠り、目覚めたら持参した本を読み、機内サービスの映画を見て、機内食を食べ、気が向いたら窓の外に広がる空を眺め、戯れに写真を撮ったのち、再度眠る。そろそろ限界だ、降ろしてくれ、と思ったあたりで、機内放送が着陸の案内をしてくれる。
そんな調子で、離陸時も着陸時も、機内での過ごし方も作法もわからない私は、シートベルトを締めたらすぐに目を瞑るようになった。
そうやって、飛行機の苦しみから逃れる術を手に入れた。
もちろん今回の旅も、そうするはずだったのだ。
今回は久しぶりに乗り継ぎのある旅である。新千歳空港から一度羽田に向かい、飛行機を乗り換えて目的地である福岡空港を目指す。そんなわけで、まずは羽田に向かわなくてはならない。
私は憂鬱だった。飛行機が離陸するまでは。
いつも通り機内に乗り込み、シートベルトを締めて、目を瞑る直前に視界に入ったのは、窓の外に広がるアスファルトの海でもなく、映像内で安全を確認する歌舞伎役者でもなく、見目麗しいキャビンアテンダントでもなく、
彩り鮮やかな機内誌の表紙だった。
「翼の王国」2019年11月号である。
何故だろうか、普段は手を伸ばさない機内誌に興味を持ち、手を伸ばす。
シートベルトランプが灯り、飛行機は離陸に向けて加速していく。
そんなことお構いなしに、パラパラと数ページめくってみる。
そして灯ったランプが消えた頃には、「機内誌のエッセイ」の虜になっていた。
筆者が旅先を綴っていく言葉は、丁寧に推敲された言葉がどれも心地よく収まる場所で使われており、読み手にその場所への憧れを抱かせてくれた。
行ったこともないのに、その土地の人に対して親近感を持ってしまう。食べたこともないのに、他人にそのおいしさを伝えたくなってしまう。見たこともないのに、まぶたの裏にその景色を浮かばせてしまう。
特にこの11月号で私の心を揺さぶったのは、しまおまほ氏が執筆された「チェンナイ/南インドのいいものほしいもの」というエッセイだった。
筆者の温かみが感じられる文体に加え、現地で抱いた感情をそのまま読み手に伝わる言葉でアウトプットしてくれる優しさ。阿部雄介氏の写真もその文章に彩りを添えて、私に訴えかけてくる。
多分今の私なら、「チェンナイ、楽しいよ、いい場所だよ。」とか「ローズミルク、美味しいよ」とか、行ったこともないのに平気で言えると思う。
私が「この方の文章、好きだな」と強く実感したのは、筆者がエリオットビーチで出会った現地の親子とのエピソードを読んだときだ。
エピソード自体もさることながら、文章の終わり方に愛を感じさせてくれる。
「エリオットビーチは夜7時。空はベイビーブルーからネイビーに。もうすぐチェンナイは夜に包まれる。」
まるであたかも読み手がその場にいるような一文に、私はチェンナイの日暮れを感じた。機内に差し込む西日も、この風景の追想を手伝う。
私は目を閉じた。普段の私なら眠るために、だが、この時だけは、旅先のチェンナイを想像するために、だった。
文章で人は旅に出られる。
そんな文章を私も書いてみたい。
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恥ずかしながら、氏の存在は全く知らなかった。
読了後に調べてみたら、誕生日が私と同じで、一時期聞き好んでいた「かせきさいだぁ」氏の奥方だというではないか。これも何かの縁なので、今後一方的に応援し続けていこうと思う。
ここまで考えたところで、再度シートベルトランプが灯った。これから飛行機は着陸態勢に入るらしい。
抵抗を失った航空機の旅は、まだ始まったばかりだ。